第八十八話「揺りかごの冷気と夜明けの鹹豆漿」
第八十八話「揺りかごの冷気と夜明けの鹹豆漿」
1.未明の呼び出しと産婦人科病棟
双霊相談事務所の土間には、佐藤蓮の深く静かな呼気が響いていた。「フッ……ハッ!」という規則正しい踏み込みと共に、八極拳の套路が繰り出される。これは決して実戦のための体術ではなく、道士として己の気脈を整え、心身の健康を維持するための欠かせない日課であった。蓮がタオルで汗を拭っていたその時、デスクの上に置かれた李美鈴の折りたたみ式携帯電話が、ピコピコという単調な和音の着メロを鳴らした。
「はい、美鈴です。……林さん? こんな朝早くにどうしたんですか?」
受話器越しの声に、美鈴の表情がスッと引き締まる。台北市内にある大型総合病院の産婦人科病棟で、ここ数日、深夜の午前二時を回ると新生児たちが一斉に泣き出し、当直の看護師たちがひどい悪寒と倦怠感に襲われて倒れるという事態が相次いでいるというのだ。
「新生児は生命力が強い反面、霊的な波長にも敏感です。被害が出る前に急ぎましょう」
二人はすぐさま黒のカローラ・アルティスに飛び乗り、まだ薄暗い台北の街を病院へと急いだ。
2.白衣の影と凍てつく揺りかご
深夜の総合病院は、まるで巨大な墓標のように静まり返っていた。特別に裏口から通された二人が新生児室に足を踏み入れると、暖房が効いているはずの室内は、吐く息が白くなるほどの異常な冷気に包まれていた。
「……います。部屋の奥、保育器のそばです」
美鈴の足元で、分霊の黒犬・シャドウが低く唸りながら警戒の姿勢をとる。霊感のない蓮には見えないが、美鈴の瞳には、古ぼけた旧式の白衣を着た若い女性の霊が、泣き叫ぶ赤ん坊を必死にあやそうとしている姿がはっきりと映っていた。
「彼女、悪霊じゃありません。昔この病院で働いていた看護師の霊です。赤ん坊を寝かしつけようと一生懸命なんですが、彼女が触れようとするたびに強い未練が霊障(冷気)となって、逆に子供たちを怯えさせてしまっているんです」
3.慈愛の結界と送魂の剣
「悪意がないとはいえ、このままでは生者の命に関わるな」
蓮は即座に懐から数枚の符を取り出した。物理的な攻撃など一切必要ない。彼が振るうのは、純粋な道教の方術のみだ。
「道法無辺、急々如律令!」
美鈴のナビゲートに従い、蓮が投擲した符が霊の周囲四方を取り囲む。淡い光の結界が展開されると、霊の放つ冷気が完全に遮断され、保育器の中で泣き叫んでいた新生児たちが、嘘のようにスヤスヤと穏やかな寝息を立て始めた。
行き場を失い、悲しげに立ち尽くす看護師の霊へ向けて、美鈴が優しく語りかける。
「もう大丈夫ですよ。あなたの優しい気持ちは、ちゃんとこの子たちに届いています。あとは私たち生きている人間に任せて、どうか休んでください」
美鈴のケルトの魔術が温かい光の粒となり、霊の心を解きほぐしていく。彼女がふっと安堵の微笑みを浮かべた瞬間、蓮は静かに帰真剣を引き抜いた。
「帰真――本来の姿へ還れ」
結界の中心へ向けられた剣先から清浄な波紋が放たれ、白衣の霊は満足げに深く一礼すると、光の粒子となって朝焼けが近づく窓の外へと昇っていった。
4.夜明けの鹹豆漿
「終わりましたね。林さんには、後で携帯からショートメールを入れておきます」
美鈴がパタンと携帯電話を閉じた直後
「先輩、安心したら、お腹が空いて来ちゃいました」
「ふっ……。緊迫した現場の後は、腹が減るよな。朝飯にしては少し早いが、何か温かいものを食べて帰ろう」
蓮が笑いかけると、美鈴はパッと顔を輝かせた。
「先輩、病院の近くに早朝から開いている伝統的な朝食屋台があるんです! 私、熱々の『鹹豆漿』と『蛋餅』が食べたいです!」
数十分後、二人はプラスチックの丸椅子に座り、湯気を立てる朝食を囲んでいた。 お酢の力でおぼろ豆腐のように固まった熱々の豆乳スープ(鹹豆漿)には、干しエビやザーサイの旨味が溶け出し、上に乗った揚げパン(油条)がサクサクとした食感のアクセントを生み出している。
「はふっ、あふっ! お酢の酸味とラー油の辛味が、疲れた体に染み渡ります〜!」
「ああ、卵焼きをモチモチの生地で巻いたこの蛋餅も、甘辛いタレとよく合って絶品だ」
病院での悲しい未練を空へ送り届け、二人の新しい一日は、活気づき始めた台北の街の喧騒と、心まで温まる台湾の朝ご飯と共に幕を開けた。




