第八十七話「中横公路の霧と彷徨う道標」
台湾祓清愛哀歌:第八十七話「中横公路の霧と彷徨う道標」
1.長距離遠征と紙の地図
「フッ……シッ!」 台中市内の安宿の駐車場。まだ薄暗い早朝の空気の中、佐藤蓮は八極拳の套路(型)を打ち、深く息を吐き出していた。長距離運転を前に、道士としての気脈と体の強張りをほぐすための日課である。
「先輩、そろそろ出発しないと日が暮れちゃいますよ」
李美鈴が、助手席の窓からひょっこりと顔を出した。彼女の手には、赤ペンでルートが書き込まれた大判の台湾道路地図が握られている。
二人は数日前から台中で発生した小規模な霊障案件を片付け、今日は東海岸の街・花蓮へと向かう予定だった。花蓮の市役所から、古い洋館での祓清依頼が入っているのだ。
「台中から花蓮へ抜けるなら、省道8号線……通称『中横公路』を越えるのが最短ですね。ただ、険しい山道ですから気をつけてください」
美鈴が地図をダッシュボードに広げながら言う。
「ああ。ガソリンも満タンにした。後輩さんのナビを頼りに行くぞ」
黒のトヨタ・カローラ・アルティスは、朝日を背に受けて台中を出発し、台湾の背骨とも言える中央山脈の深くへと突き進んでいった。
2.太魯閣の霧と見えない警告
中横公路は、切り立った断崖絶壁と深い谷底を縫うように走る、台湾屈指の山岳道路である。カローラ・アルティスのカーステレオから流れる古いCDの音楽をBGMに、車は順調に標高を上げていた。
しかし、大禹嶺を越え、太魯閣峡谷の入り口に差し掛かったあたりで、周囲の空気が一変した。 季節外れの濃い霧が立ち込め、視界が極端に悪くなる。同時に、季節を冬に巻き戻したかのような凍てつく冷気が車内を満たした。
「……先輩、車を止めて!」
助手席の美鈴が鋭い声を上げ、足元にいた黒犬のシャドウがフロントガラスに向かって激しく吠え立てた。
蓮が急ブレーキを踏むと、タイヤが軋む音と共に車が停止した。 霊感のない蓮には、ただ濃い霧とヘッドライトの光しか見えない。しかし、肌を刺すような霊障の気配はびりびりと感じ取っていた。
「状況は?」
「車の5メートル先……。作業着姿の男性の霊が、必死に赤い旗を振って私たちを止めようとしています」
美鈴は目を凝らし、ケルトの魔術で波長を合わせた。
「この先の道路、過去に大きな土砂崩れがあった場所です。彼はその事故に巻き込まれて亡くなった作業員。自分が死んだことにも気づかず、『この先は危険だ、進むな!』という強い警告の念を放ち続けています」
「悪霊ではないんだな」
「はい。でも、彼の放つ強すぎる警告の念が霊障となってこの濃霧(幻覚)を生み出し、逆に通りかかるドライバーの視界を奪って事故を誘発しています」
3.霧を晴らす剣
「彼に悪意がないなら、なおさら早く安心させてやらなきゃな」
蓮は車を降り、冷たい霧の中へと足を踏み入れた。
「シャドウ、彼の足止めを!」
美鈴の指示で、シャドウが影から飛び出し、作業員の霊の前に立ち塞がって注意を引く。
「道法無辺、急々如律令!」
蓮は懐から数枚の符を抜き放ち、霧の空間へ向けて投擲した。符が四方に散って淡い光の結界を展開すると、霊障によって生み出されていた濃霧が、結界の内側と外側でくっきりと遮断された。 視界が開け、霊の波長が安定する。
蓮は背に負っていた帰真剣を静かに引き抜き、シャドウが牽制している「空間」へと刃を向けた。
「あんたの警告のおかげで、俺たちは助かった。もう道は安全だ。ご苦労だったな」
蓮の落ち着いた声に、作業員の霊はハッとしたように旗を振る手を止めた。
「帰真――本来の姿へ還れ」
浄化の真言と共に放たれた剣の波紋が、霊を優しく包み込む。作業員は蓮と美鈴に向かって深々と一礼すると、山の木漏れ日の中へ光の粒子となって溶けていった。 同時に、周囲を覆っていた濃霧が嘘のように晴れ渡り、壮大な太魯閣の渓谷美が姿を現した。
4.花蓮の夜と熱々のワンタン
「ふぅ、無事に抜けられましたね」
夕暮れ時。中横公路を完走したカローラ・アルティスは、無事に太平洋を望む花蓮の市街地へと到着した。 美鈴は折りたたみ式の携帯電話を開き、花蓮の市役所担当者へ
「無事到着しました、明日伺います」と連絡を入れる。
「さて、長旅で肩がバキバキだ。……後輩さん、今日のシメはどうする?」
蓮がハンドルを握りながら笑いかけると、美鈴は待ってましたとばかりに目を輝かせた。
「花蓮に来たら、絶対に『扁食』です! 豚肉がぎっしり詰まった、花蓮特産のワンタンスープですよ。老舗の美味しいお店をチェックしてあります!」
「いいな。山越えで冷えた体には最高のご馳走だ」
数十分後、二人は地元客で賑わう小さな食堂のテーブルで、湯気を立てる扁食を囲んでいた。 澄んだ豚骨とセロリのあっさりとしたスープに、薄い皮から透けるほど肉が詰まった巨大なワンタンがゴロゴロと浮かんでいる。揚げネギの香ばしい匂いが食欲を激しく刺激した。
「はふっ、あふっ……! 皮がツルツルで、お肉の旨味がすごいです!」
レンゲでワンタンを頬張り、美鈴が幸せそうに目を細める。
「本当だな。スープも優しい味で、長旅の疲れが抜けていくようだ」
蓮も額に汗を滲ませながらスープを飲み干した。足元では、長旅を終えたシャドウが気持ちよさそうに丸くなっている。 険しい山越えの試練と幽霊の悲哀を乗り越え、二人の夜は花蓮の温かいグルメと共に穏やかに更けていった。




