第八十五話「見えない絆と導きの尾」
台湾祓清愛哀歌:第八十五話「見えない絆と導きの尾」
1.空振りの訪問と違和感
台北市内の閑静な住宅街。双霊相談事務所の二人は、視覚障害を持つ男性の依頼で彼のアパートを訪れていた。
「ここ数日、盲導犬の『ルル』が玄関に向かって怯えたように鳴くんです。その度、部屋の温度が急激に下がるような悪寒がして……」
依頼人が不安げに語る足元で、ゴールデンレトリバーの盲導犬ルルが、玄関のドアを見つめながら低く鼻を鳴らしていた。
李美鈴は静かに目を閉じ、自身の見鬼の力を研ぎ澄ませた。分霊の黒犬・シャドウも部屋中を嗅ぎ回る。しかし、数分後、美鈴はゆっくりと首を横に振った。
「……おかしいですね。霊の波長も、霊障の発生源もこの部屋には見当たりません」
「シャドウも反応していないな。……依頼人さん、お力になれずすみません。一時的な気の迷いということもあります。もしまた異変があれば、すぐに連絡をください」
佐藤蓮はそう告げ、二人は一度依頼人の部屋を引き上げることにした。決定的な霊の姿が確認できない以上、術を振るうことはできない。
2.帰路の車内と気づき
「どうにも腑に落ちません」
夕暮れの街を走る黒のカローラ・アルティスの助手席で、美鈴が腕を組んだ。
「盲導犬は、些細なことでは動じないように厳しく訓練されています。それなのに、ルルは玄関に向かって鳴いていた。シャドウも、敵意を向けるどころか、尻尾を巻いて大人しく座り込んで……」
運転席の蓮も、ハンドルを握りながら眉をひそめた。
「そういえば依頼人は、『ルルは二代目で、先月、初代の盲導犬が寿命で息を引き取った』と言っていたな」
「初代……!」
美鈴の脳裏に、ある閃きが走った。
「先輩、ルルは怯えていたんじゃありません! シャドウと同じ『服従』の姿勢をとっていたんです。自分より上位の存在……つまり、『先代の盲導犬』に対して!」
蓮がハッと息を呑む。
「初代の霊が、残された主人と後輩を心配して会いに来ていたのか。霊が見えなかったのは、我々が『部屋の中』しか探さなかったからだ。盲導犬が主人を待つ定位置は……!」
「散歩に出かけるための、『玄関の外』です!」
蓮は即座にウインカーを出し、車を鋭くUターンさせた。
3.玄関先の忠犬
依頼人のアパートの廊下に舞い戻った二人は、玄関のドアの前に広がる凍てつくような冷気を感じ取った。
「……いました。間違いない、初代の子です」
美鈴の視線の先、ドアのすぐ外側に、半透明のラブラドールレトリバーが静かにお座りをして待っていた。その口には、今はもう存在しないはずの古いリードがくわえられている。
「主人が心配で、迎えに来てしまったんだな」
蓮は痛ましそうにつぶやいた。悪霊ではないが、強い執着は霊障を生み、生きているルルや主人に負担をかけてしまう。
「先輩、私が彼を安心させます。その間に結界を」
美鈴がケルトの言葉を紡ぎ、温かい光の粒を放つと、初代の霊はハッとしたようにこちらを向いた。シャドウが歩み寄り、鼻先をすり合わせて『あとは任せて』と伝えるように鳴く。
「道法無辺、急々如律令!」
蓮が放った符が四方を取り囲み、周囲への霊障を遮断する結界を展開した。
4.引き継がれたリード
的が定まれば、あとは送魂だ。蓮は帰真剣を静かに引き抜いた。
「お前は立派に役目を果たした。もう、休んでいいんだ」
蓮の言葉に応えるように、初代の霊はドアの向こう側にいるであろう主人とルルに向かって一度だけ小さく吠え、自ら剣の射程へと歩み寄った。
「帰真――本来の姿へ還れ」
剣先から放たれた清浄な波紋が霊を包み込む。初代の盲導犬は、満足げに尻尾を振りながら、光の粒子となって天へと昇っていった。
帰りの車内。美鈴は折りたたみ式の携帯電話を開き、依頼人へ
「原因は無事に解決し、これでルルちゃんも落ち着くはずだ」と通話を終えた。
「先代のエール、ルルちゃんにもちゃんと届いているといいですね」
「ああ。きっと明日からは、胸を張って主人を導いてくれるさ」
蓮の言葉に美鈴が微笑んで頷くと不意に
「先輩、無事に解決したら、急にお腹が空いちゃいました。私、熱々の麺線が食べたいです!」
「そうだな。頭を回したから、俺も腹が減った。よし、寧夏夜市に寄って帰るか」
三十分後、立ち上る湯気と鰹出汁の濃厚な香りが二人を包んでいた。 夜市の屋台に並んで丸椅子に座り、二人はとろみのあるスープに柔らかな細麺が絡む麺線を頬張っている。
「ん〜っ、やっぱりここの麺線は最高ですね! 豚の大腸もプルプルで、パクチー大盛りにして大正解でした!」
「慌てて食べて火傷するなよ。……ほらシャドウ、お前には特別な犬用ジャーキーだ。今日はお前たちのお手柄だったからな」
蓮の足元で、シャドウが嬉しそうに短い尻尾を振ってジャーキーを食む。 オレンジ色の街灯と屋台の裸電球に照らされながら、バディの夜は賑やかに更けていく。幽霊たちの切ない想いが交差する台北の街で、今夜も二人の胃袋と心は、温かく美味しい台湾グルメに満たされていた。




