第八十三話「夜市の熱狂と幻の牛肉麺」
台湾祓清愛哀歌:第八十三話「夜市の熱狂と幻の牛肉麺」
1.携帯電話の呼び出しとコンテストの喧騒
双霊相談事務所の朝は、規則正しい呼気と踏み込みの音から始まる。
「フッ……ハッ!」
佐藤蓮は、事務所の土間で八極拳の套路(型)を終え、深く息を吐き出した。これはあくまで日々の心身の健康管理と、道士としての気を練るための日課である。タオルで汗を拭いながら、彼は満足げに筋肉の張りを確認した。
「先輩、お疲れ様です。今日も良い汗かいてますね」
机に向かっていた李美鈴が、iMacの分厚いブラウン管モニターから視線を外して微笑んだ。彼女はキーボードを叩き、自作のホームページの更新作業を行っている。
その時、事務所の隅に置かれた、蓮の携帯電話がけたたましく鳴り響いた。 蓮が電話に出ると、相手は市役所の林担当員だった。
『佐藤くん、急ぎの案件よ! 今、士林夜市で「屋台飲食店・人気投票コンテスト」が開催されているのは知ってる?』
「ええ、街のあちこちにポスターが貼ってありましたね」
『その「麺類部門」のエリアで、登録されていない見知らぬ古い屋台が現れて、周囲の客や他の店主たちが次々と悪寒や幻覚を訴えて倒れているの。被害が広がる前に、至急祓清をお願い!』
「了解しました。すぐに向かいます」
蓮は携帯電話をしまうと、傍らの帰真剣を手に取った。
「後輩さん、出番だ。士林夜市で霊障が発生した」
2.カローラ・アルティスと紙の地図
黒のトヨタ・カローラ・アルティスが、夕闇が迫る台北の街を駆ける。 助手席の美鈴は、ダッシュボードから取り出した大判の台北市街図(紙の地図)を広げ、現在地と夜市への最短ルートを指でなぞっていた。
「先輩、次の交差点を右です! 今夜はコンテストのせいで周辺の交通規制が厳しいので、裏道から回り込みましょう」
「助かる。カーナビなんて高級品はないからな、君のナビが頼りだ」
車を少し離れた路地に停め、二人は徒歩で士林夜市へと向かった。 コンテストの熱気に包まれた夜市は、夥しい数の提灯と人々の歓声、そして様々な香辛料の匂いでむせ返るようだった。しかし、麺類部門の激戦区とされる一角だけ、ぽっかりと人が寄り付かず、不自然なほどの静寂と冷気に包まれていた。
3.見鬼の眼と過去への執着
「……見つけました。あの奥です」
現場に足を踏み入れるなり、美鈴の顔つきが変わった。彼女の足元では、分霊の黒犬・シャドウが低く唸り声を上げている。
霊感がほとんどない蓮の目には、ただ薄暗い路地が見えるだけだ。しかし、肌を刺すような冷気は確実に感じ取っていた。
「状況を教えてくれ、後輩さん」
「古びた屋台です。……中で、初老の男性の霊が必死に牛肉麺を作っています。すごい執念。周りに漂っているのは『誰にも自分の味を認めてもらえなかった』という強い未練と焦燥感です」
美鈴の視線の先では、半透明の老人が、見えない客に向かってひたすらに麺を湯切りしていた。彼の発する強烈な未練が霊障となり、コンテストで賑わう周囲の生者の精神を当てられ、体調不良を引き起こしているのだ。
「誰かを傷つける意志はないようですが、このまま未練を垂れ流しにされれば、コンテストどころじゃなくなりますね」
「ああ。彼の未練ごと、あるべき場所へ送り返してやろう」
4.符術の結界、送魂の剣
蓮は懐から数枚の符を取り出した。霊の姿が見えなくとも、長年のバディである美鈴のナビゲートがあれば十分だ。
「先輩、屋台は路地の中央、赤い提灯から三歩右の位置です!」
「了解した!」
蓮は一切の無駄がない洗練された動作で、美鈴が指定した空間の四方へ符を投擲した。 「道法無辺、急々如律令!」
符が空中でぴたりと静止し、淡い光の結界を展開する。霊の周囲の空間が遮断され、夜市へと漏れ出していた冷気と悪寒がピタリと止んだ。物理的な力や体術で霊を押さえつけるのではなく、純粋な道教の方術による完全な封じ込めである。
結界の中に捕らえられた霊は、戸惑うように動きを止めた。
「今です、先輩! 屋台の正面、霊の胸の中心は地面から約百五十センチ!」
美鈴の正確な指示を受け、蓮は静かに帰真剣を鞘から引き抜いた。 鍛え上げられた下半身がブレのない踏み込みを生み出し、剣先が結界の中心へと吸い込まれるように伸びていく。
「帰真――本来の姿へ還れ」
剣先が霊の核を捉え、浄化の真言が路地に響き渡った。 美鈴の目には、老人の霊が最後に一杯の幻の牛肉麺をスッと差し出し、満足げな微笑みを浮かべながら光の粒子となって天へ昇っていくのが見えた。
5.コンテストの勝者
霊障が消え去り、路地に再び台湾の蒸し暑い夜の空気が戻ってきた。
「ふぅ……今回も君の眼に助けられたよ」
蓮が剣を納めると、美鈴はシャドウの頭を撫でながら笑った。
「先輩の送魂も見事でしたよ。あの職人のおじいさん、最後に少しだけ嬉しそうな顔をして還っていきました」
結界が解かれたことで、避難していた客や店主たちが恐る恐る戻り始め、路地はすぐにコンテストの活気を取り戻した。 無事に仕事(祓清)を終えた二人は、コンテストの喧騒の中を歩き出す。
「さて、林さんに完了の連絡を入れたら、俺たちも腹ごしらえと行こうか。……さっきから、美味そうな匂いでお腹が鳴って仕方ない」
「賛成です! 麺類部門の優勝候補の店、チェックしてあるんですよ。シャドウにも何かお裾分けしないと」
2000年代初頭の台北の夜。 人と幽霊の境界線が入り混じるこの街で、二人の霊能者は、湯気を立てる熱々の牛肉麺の香りに誘われながら人混みへと溶けていった。




