第八十二話「アンティーク・ミラーと乙女たちの追跡」
台湾祓清愛哀歌:第八十二話「アンティーク・ミラーと乙女たちの追跡」
1.双霊相談事務所の午後
蓮がカローラ・アルティスの車検と、市外の山間部での地味な結界メンテナンスの仕事で丸一日不在にしている日の午後。 双霊相談事務所は、いつものむさくるしい(と美鈴は思っている)空気とは打って変わり、華やかな空気に包まれていた。
「美鈴ちゃん、風邪はもうすっかりいいの?」
「はい、林さん! ご心配おかけしました。お見舞いの漢方ゼリー、すごく効きました」
市役所の担当員である林が、非番を利用して差し入れの台湾カステラを持って遊びに来ていたのだ。美鈴は上機嫌で烏龍茶を淹れ、愛犬(分霊)のシャドウは林の足元で気持ちよさそうに撫でられている。
そこへ、事務所のドアを勢いよく開けて飛び込んできた影があった。
「特ダネよ、美鈴ちゃん! あ、林さんもいるじゃない。ちょうどよかったわ!」
フリーの雑誌記者、黄である。首から提げた一眼レフカメラを揺らしながら、彼女は目をキラキラと輝かせていた。
「黄さん、また何か厄介事を拾ってきたんですか? 先輩は今日、夕方まで戻りませんよ」 「蓮くんがいなくても大丈夫! むしろ、女の子だけで行ったほうがいい現場なの」
黄がテーブルに広げたのは、大稲埕エリアにある、最近若い女性に人気のレトロカフェの写真だった。
「ここの2階にある大きなアンティーク・ミラー。最近、鏡の前に立つと『知らない女性の泣き声』が聞こえるって噂になってるの。しかも、泣き声を聞いた子はみんな、急に失恋したみたいに涙が止まらなくなるんだって。これ、絶対霊障でしょ?」
林が少し険しい顔をして、市役所支給のノートパソコンを操作した。
「大稲埕のその建物……確かに、戦前は裕福な商人の家だったはずよ。公式な依頼は出ていないけれど、精神的な影響(霊障)が出始めているなら、放置はできないわね」
美鈴は立ち上がり、シャドウの頭をポンと叩いた。
「行きましょう。怪我や破壊を伴うポルターガイストじゃないなら、私の魔術でも対処できるかもしれません」
2.大稲埕のカフェと古い鏡
古いバロック建築が並ぶ大稲埕。問題のカフェ「滴水茶館」は、定休日のためひっそりとしていた。黄の顔利きで、オーナーから鍵を借りて中へと潜入する。
店内は、焙煎された珈琲豆と古い木材の香りが入り混じっていた。 2階に上がると、そこには壁一面を覆うような豪奢な西洋アンティーク・ミラーが鎮座していた。
「……いるわね。かなり深い悲しみを持ってる」
美鈴が呟くと同時に、シャドウが鏡に向かって低く唸り声を上げた。
「待って、撮るわ」 黄がカメラを構え、フラッシュを焚いた。パシャリという音と強烈な光の直後、黄のカメラの液晶画面には、肉眼では視えない「チャイナドレスを着た女性」が鏡の中にうずくまっている姿がくっきりと写し出されていた。
「すごいわ、黄さん。カメラのレンズを通すと、霊の波長が可視化されるみたい」
「伊達に怪奇ルポライターやってないわよ。で、どうするの? 蓮くんの剣がないと送魂できないんでしょ?」
「先輩の『帰真剣』みたいな強制的な送魂は無理ですが……」
美鈴は一歩前に出た。
「彼女、悪霊じゃないんです。ただ、悲しくて、ここで誰かを『待って』いるだけ。だから……」
林がそっと口を挟む。
「建物の記録を見たわ。戦時中、ここの商人の娘が、出征した許婚をずっとこの部屋で待っていたそうよ。でも、彼は帰ってこなかった」
3.ケルトの風と共感の魔術
美鈴は目を閉じ、胸の前で両手を組んだ。恩師イザベラから教わったケルト系魔術は、自然の力と共鳴し、精霊や魂と「対話」するための術だ。
「シャドウ、少しの間、彼女の悲しみを引き受けて」
美鈴の指示で、黒犬のシャドウが鏡にすり寄り、霊が放つ冷たい霊障の霧をその身に吸い込み始めた。シャドウの存在が、結界の代わりに霊をその場に落ち着かせる。
美鈴はゆっくりと目を開き、広東語と古いケルトの言葉を交えた呪文を紡ぎ始めた。 空気が揺らぎ、窓を閉め切った室内に、どこからか優しく温かい「風」が吹き込んだ。
「悲しみは水に流し、風に預けなさい。あなたが待つ人は、もうこの場所にはいない。けれど、あなたの愛した記憶は、永遠にあなた自身のもの……」
美鈴の指先から淡い緑色の光がこぼれ、アンティーク・ミラーに触れる。 道教の「祓清」が邪を断ち斬るものだとするなら、美鈴の魔術はもつれた糸を「解きほぐす」ものだ。
鏡の中から、すすり泣く声が聞こえた。しかしそれは、絶望の涙から、安堵の涙へと変わっていく。 黄のカメラの液晶画面の中で、うずくまっていた女性がゆっくりと立ち上がり、ふっと優しく微笑んで、光の粒となって溶けていった。
「……いなくなった。綺麗に、どこかへ」 黄がカメラを下ろし、ほっと息をついた。
「ええ。自分がもう待たなくていいことに気づいて、自然に還っていきました。私には『送る』ことはできないけど、『気づかせる』ことならできるんです」
少し疲れたように微笑む美鈴に、林がハンカチを差し出した。
「立派だったわ、美鈴ちゃん。佐藤くんがいなくても、あなたはもう立派な国家公認祓清技能士よ」
4.乙女たちのティータイム
「あーあ、特ダネになるようなド派手な怪奇現象じゃなかったわね。でも、いい写真が撮れたからいっか!」
カフェを出た後、大稲埕のアーケードを歩きながら黄が明るく笑う。
「もう、黄さんは相変わらず転んでもただでは起きませんね。でも、今日は私一人じゃ背景が分からなかったし、黄さんのカメラがなかったら霊の状態も掴めませんでした。林さん、黄さん、ありがとうございました」
美鈴が深々と頭を下げる。
「気になさらず。私たち、いいチームだったわね」 林が上品に微笑み、ふと前方の看板を指差した。 「さ、力仕事(?)の後は甘いものでもどうかしら。ここの『豆花』、ピーナッツとタピオカがたっぷりで絶品なのよ。今日は私にご馳走させて」
「やった! 林さん大好き!」
「シャドウにも、特別なクッキーを買ってあげなきゃね」
夕暮れの大稲埕。 冷たいシロップと滑らかな豆花を囲み、三人の女性の笑い声が弾ける。 恋バナ、市役所の愚痴、雑誌の裏話。話題は尽きない。
同じ頃。 「……はっくしょん! 誰か噂でもしてるのか?」 山の中で泥だらけになりながら結界の杭を打っていた蓮が、一人くしゃみをしていることなど、彼女たちの知る由もなかった。




