第八十一話「視えない影と男たちの流儀」
台湾祓清愛哀歌:第八十一話「視えない影と男たちの流儀」
1.美鈴の不在と持ち込まれた厄介事
台北は本格的な雨季を迎え、街全体が重く湿った空気に沈んでいた。 双霊相談事務所の主である李美鈴は、数日前から流行りのひどい風邪をこじらせ、現在ダウンしている。
「……さて、困ったな」
一人事務所に取り残された佐藤蓮は、淹れたての烏龍茶を啜りながら小さく息を吐いた。 蓮の霊感(見鬼)は無に等しい。美鈴の眼と、彼女の分霊である黒犬のシャドウがいなければ、霊の正確な位置を特定することは困難だ。送魂の腕には自信があるが、的が見えなければ剣の振りようがない。
そこへ、事務所のドアが控えめにノックされた。
「佐藤さん、いらっしゃいますか?」
雨合羽を滴らせて入ってきたのは、懇意にしている近所の交番勤務、陳巡査部長だった。誠実な人柄で知られる彼だが、今日はいつも以上に顔が強張っている。
「陳さん、こんな雨の中にどうしました?」
「実は、佐藤さんに折り入ってご相談が。……非公式な案件なんですがね」
陳が語るところによると、淡水河沿いにある古い貸倉庫街で、ここ数日「奇妙な物音」と「物理的な破壊」が相次いでいるという。パトロール中の警官が確認に向かったが、姿は見えないのにドラム缶が吹き飛び、空気が凍りつくような悪寒に襲われた。典型的な霊障の初期症状だ。
「本来なら市役所を通すべきですが、被害が拡大する前に手を打ちたい。ただ、李さんがお休みと聞いて……」
「行きますよ。見過ごすわけにはいきませんからね」
蓮は迷わず帰真剣を手に取った。眼がなくとも、やらなければならない時がある。
2.現場のハードボイルド
現場となった薄暗い倉庫街に到着すると、すでに黄色い規制線が張られていた。 雨音だけが響く中、倉庫の入り口の軒下で、紫煙をくゆらせている見慣れた男のシルエットがあった。
「よぉ、日本の兄ちゃん。それに陳の旦那も。奇遇だな」
くたびれたトレンチコートに身を包んだ探偵、呉である。裏社会の泥臭い情報収集を得意とする彼は、吸いかけの煙草を携帯灰皿に押し込んだ。
「呉さん、どうしてここに?」
「俺は人探しさ。借金を踏み倒して逃げたチンピラを追ってたら、この倉庫に行き着いた。だが、中はもぬけの殻。代わりに『視えないバケモノ』が暴れ回ってる痕跡を見つけてね。お前さんたちにお鉢が回ってくる頃だと思って待ってたのさ」
状況を把握した三人は、顔を見合わせた。 霊能者、警察官、そして裏社会に通じる探偵。異色のトリオだが、目的は一つだ。
「呉さん、陳さん。正直に言います。今の俺は『視えない』んです。後輩さんがいないので、正確な位置が掴めない」
蓮が打ち明けると、呉はニヤリと笑った。
「案ずるな、兄ちゃん。幽霊だって元は人間、しかも今は物理的な干渉を起こしてるんだろ? なら、オカルトじゃなく『物理とロジック』で追い詰めてやるさ」
「私も協力します。警察の現場検証のノウハウを舐めないでくださいよ」
陳が力強く頷き、大型の強力なフラッシュライトを構えた。
3.三人の連携
倉庫の中は、破壊の跡で満ちていた。積まれた木箱は砕け、鉄パイプがひしゃげている。 足を踏み入れた瞬間、蓮の肌をピリリとした冷気が撫でた。
「来るぞ!」
呉の鋭い声と共に、暗がりから巨大な木箱が三人にめがけて飛んできた。 陳は即座に前に踏み込み、警棒を抜き放ち、木箱を弾き飛ばす。木っ端微塵に砕ける破片。
「陳の旦那! 気温が下がった方向を照らせ! 埃の舞い方を見ろ!」
「了解!」
呉の指示を受け、陳がフラッシュライトの光の筋を縦横無尽に走らせる。光の中に浮かび上がる無数の埃が、ある一箇所だけ、まるで台風の目のように不自然に渦を巻いていた。霊障が物理世界に干渉する際に生じる、空気の歪みだ。
「見つけました! 右奥、崩れたパレットの上です!」
陳の叫びと同時に、呉が懐から取り出したパチンコ(スリングショット)で、塗料の入った小さなカラーボールをその「空間」に向けて放った。 パァン! という音と共に、空中で蛍光塗料が弾け、見えないはずの「何か」の人型の輪郭が、わずかに空中に浮かび上がる。
「そこか……!」
蓮は懐から数枚の符を取り出し、塗料が浮かぶ空間を囲い込むように投擲した。 「道法無辺、急々如律令!」
四方に貼り付いた符が淡い光を放ち、不可視の結界が展開される。霊はもがき、結界の中で壁を叩くような鈍い音を響かせた。逃げ場を失ったことで、霊の存在が確固たる「質量」を帯びたように空間が歪む。
的が定まれば、あとは送魂の専門家である蓮の独壇場だ。
蓮は深く息を吸い込み、帰真剣を抜き放つ。
「大の男三人掛かりで、随分と手荒な真似をしてすまない。だが、これ以上ここで暴れさせるわけにはいかない」
蓮は踏み込み、一点の狂いもなく結界の中心、塗料が示す「核」に向かって剣を突き出した。
「帰真――本来の姿へ還れ」
刀身から放たれた浄化の波紋が、倉庫内を満たしていたどす黒い霊障を瞬時に吹き飛ばした。 断末魔の叫びのような風が吹き抜け、直後、嘘のように静寂が訪れる。塗料はポロポロと床に落ち、そこにはもう何もいなかった。
4.男たちの乾杯
「……ふぅ。終わりました」
蓮が剣を鞘に納めると、陳は大きく息を吐き出してライトを下ろした。
「いやはや、冷や汗をかきましたよ。しかし、見事な連携でしたね」
「まったくだ。魔術師のお嬢ちゃんがいなくても、案外なんとかなるもんだな」
呉はそう言いながら、新しく煙草に火を点けた。紫煙が、浄化された清浄な空気に吸い込まれていく。
その夜。 冷え切った体を温めるため、三人は雙連駅近くの熱炒(台湾式居酒屋)に腰を下ろしていた。 プラスチックの丸椅子に座り、テーブルには台湾ビールと、湯気を立てる沙茶牛肉(牛肉の沙茶ソース炒め)、そして熱々の三杯鶏が並んでいる。
「今日は特別です。私のおごりですよ」 陳が珍しく上機嫌にビールのグラスを掲げた。 「警察じゃあ手に負えないヤマでした。お二人には感謝しかありません」
「タダ酒なら遠慮なくいただくぜ。……しかし、日本の兄ちゃんも随分と肝が据わってきたな。昔はもう少し青臭かったが」
呉がグラスを合わせながらニヤリと笑う。
「ウェイ師匠に叩き込まれましたからね。それに……」
蓮は琥珀色のビールを流し込み、柔らかく微笑んだ。
「頼れる『大人』が周りにいてくれるおかげです。俺一人じゃ、今日空振りして倉庫を破壊して終わってましたよ」
「ははは! 違いない!」
男たちの大らかな笑い声が、夜の喧騒に溶けていく。
美鈴が復帰して「先輩、私のいない間に男性だけで楽しんでズルいです!」と膨れるのは、また明日の話。
幽霊と隣り合わせの台北の夜は、男たちの杯と共に静かに更けていった。




