第七十九話「北宜(ベイイー)公路のゴーストライダー」
台湾祓清愛哀歌 第七十九話「北宜公路のゴーストライダー」
1.九彎十八拐の噂
深夜の台北。日付が変わった直後の静寂を破り、双霊相談事務所の黒いカローラ・アルティスが、街灯の少ない山道へと差し掛かっていた。
「先輩、この先のヘアピンカーブからが要注意エリアです。『九彎十八拐』と呼ばれる、北宜公路でも一番の難所ですよ」
助手席でiMacの代わりに分厚いノートPCを開き、GPSと現地の霊脈図を照らし合わせながら李美鈴が言った。
「ああ。分かっている」 運転席の佐藤蓮は、ステアリングを握る手に軽く力を込めた。ただの大衆セダンであるカローラ・アルティスだが、足回りの整備とエンジンの調律は完璧に仕上がっている。
今回の依頼は、新北市と宜蘭県を結ぶこの険しい峠道で多発している「幽霊とのゼロヨン」の解決だ。 深夜になると、古びた改造バイクに乗った顔のないライダーが現れ、通りかかる車を執拗に煽り、レースを持ちかけてくるという。そして、誘いに乗ってスピードを出した車を、幻影の対向車線や崖下へと誘導し、事故を引き起こさせる悪質な地縛霊だった。
「スピードの出し過ぎで事故死した走り屋の無念が、この峠の陰の気と結びついて怪異化したのだろう。……来たぞ」
蓮がルームミラーに視線をやった瞬間、濃い霧の中から、甲高い2ストロークエンジンの排気音が響き渡った。 バックミラーには、青白い炎のようなヘッドライトが一つ、猛烈なスピードでカローラ・アルティスに迫ってくるのが映っていた。
2.アルティスVS幽霊バイク
『……オレヲ……ヌイテミロ……ッ!』
ヘルメットのシールドの奥に「顔」がないライダーが、アルティスの右側面に並びかけ、エンジンの空ぶかしで挑発してくる。乗っているのは、90年代に流行したNSRの改造車のような実体のない幻影だ。
「相手は霊体だ。物理法則を無視した加速で来るぞ、後輩さん、しっかり掴まっていろ!」 蓮はギアを落とし、アクセルを踏み込んだ。カローラ・アルティスのエンジンが唸りを上げ、夜の峠道でのチェイスが幕を開けた。
「シャドウ! 車体のブレを霊的に抑えて!」
美鈴の叫びに応え、後部座席の足元から這い出した黒犬・シャドウが、車内の影と同化して霊的なアンカー(錨)の役割を果たす。これにより、幽霊バイクが放つ強烈な陰の気によるエンジントラブルや、幻覚によるコースアウトを防ぐのだ。
右へ左へ、連続する急カーブ。蓮は八極拳で鍛え上げたブレない体幹と研ぎ澄まされた動体視力を、すべて「運転」に注ぎ込んでいた。 タイヤが悲鳴を上げ、ガードレールすれすれをドリフト気味に駆け抜ける。
『ハヤイ……デモ、コッチダ……!』
ゴーストライダーは前方に躍り出ると、ガードレールのない崖の方向へ向かって、幻影の「まっすぐな道」を作り出した。
「先輩! 前方の道は幻覚です! このまま直進したら崖下に転落します!」
ノートPCの地形データを見ていた美鈴が叫ぶ。
「騙されるか……! ここで終わらせる!」
蓮はアクセルを緩めず、幻影の道ではなく、本来の急カーブのインコースへと強引にノーズをねじ込んだ。
3.峠の祓清
インを突かれたゴーストライダーが、アルティスの予期せぬ動きに一瞬体勢を崩す。 「今だ!」 蓮はサイドブレーキを引き、車体を強引に横滑りさせて峠の斜面とアルティスの車体で、バイクの逃げ道を塞ぐようにブロックした。
キキーッ!という激しいスキール音と共に車が停止する。実体のないバイクだが、霊的なアンカーであるシャドウの念が込められたアルティスの車体をすり抜けることはできない。 ゴーストライダーが斜面と車体の間に挟まれ、身動きが取れなくなった。
「シャドウ、タイヤを噛み砕いて!」
窓から飛び出したシャドウが、幻影のバイクの後輪に噛みつき、その機動力を完全に奪う。
蓮は運転席から飛び出すと、すでにその手には三枚の符が握られていた。
「道法無辺、急々如律令!」
鋭い言霊と共に放たれた符が、もがくゴーストライダーの周囲を取り囲むように貼り付き、強烈な光の結界を展開する。 青白い炎を上げていたバイクのエンジン音が、断末魔のようなノイズに変わった。
「誰よりも速く走りたかった気持ちは分かるが、ここはもう、お前の走るコースじゃない」
蓮は背中に負っていた帰真剣を静かに抜き放ち、結界の中で暴れる怨念の核――ライダーの胸元へ向けて、下段から鋭い一閃を放った。
「帰真――本来の姿へ還れ」
幽霊を切り裂き、現世の執着から解放する送魂の剣。 剣閃がライダーを貫くと、幻影のバイクはガラスが砕けるような音を立てて崩壊し、顔のなかったライダーのヘルメットの奥から、ふっと安らかな若者のため息が聞こえた気がした。 直後、すべては真っ白な光の粒子となり、峠の夜風に乗って天へと昇っていった。
4.深夜のネギ餅
濃い霧が晴れ、北宜公路に本来の静かな月明かりが戻ってきた。
「ふぅ……無事に浄化完了ですね」
美鈴が車から降りて大きく背伸びをした。シャドウも満足そうに尻尾を振って影の中へ帰っていく。
蓮は帰真剣を布で包み直しながら、カローラ・アルティスの右側面を確認して深いため息をついた。
「……無茶なブロックをしたせいで、右のドアに擦り傷ができた。修理代がまた飛んでいくな」
「まあまあ、命と峠の平和が守られたんですから、安い経費ですよ!」
美鈴がニコニコしながら蓮の肩を叩く。
「それより先輩! この峠を下りきったら、宜蘭の礁渓温泉街に出ますよね!」
「……嫌な予感がするんだが」
「こんな深夜でも開いてる、美味しい葱油餅の屋台があるんですよ! たっぷりのネギと卵が入ってて、サクサクで最高なんです! 激しいカーチェイスでお腹ぺこぺこになっちゃいました!」
「あのな、怪異とカーチェイスをした直後に油っこいものを食おうとする神経が信じられん……」
蓮は呆れ果てて天を仰いだが、美鈴の翠色の瞳の圧力に負け、車のキーを回した。
「ほら、さっさと乗れ。葱油餅を食ったら、夜明け前に台北に戻るぞ」
「やったー! 助手席で特等席のナビ、頑張りますね!」
山道の静寂の中、少しだけ傷のついた黒いカローラ・アルティスが、美味しい夜食を目指して再び走り出す。怪異と隣り合わせの台湾の夜も、彼らにかかれば騒がしくも温かい日常の一部に過ぎないのだった。




