第七十七話「野柳(イエリウ)の潮騒と奇岩の迷い子」
台湾祓清愛哀歌 第七十七話「野柳の潮騒と奇岩の迷い子」
1.波音と朝の型
台北市大同区、双霊相談事務所。 「フッ、ハッ!」 開け放たれた窓から吹き込む風の中、佐藤蓮は静かに息を吐き、八極拳の套路(型)を打っていた。力強く床を踏み鳴らし、体内の気を巡らせる。霊障という目に見えない重圧と対峙し続ける祓清の仕事において、自らの心身の健康を保つための欠かせない朝の日課である。
「先輩、おはようございます。今日もキレがありますね」
李美鈴が、デスクのiMacを立ち上げながら言った。
「ああ。体が鈍れば心も鈍るからな。……で、今日はどこからのお呼び出しだ?」
蓮は首に巻いたタオルで汗を拭い、傍らに立てかけてあった帰真剣を手に取った。
「新北市の市役所からです。台湾北部の海岸、野柳地質公園で奇妙な霊障が起きているそうです」 美鈴が画面を見つめながら説明を続ける。 「夕暮れ時になると、海から『すすり泣くような声』が聞こえ、奇岩の周りに青白い人影が現れると。観光客がそれに魅入られて、海へ歩き出そうとする事件が数件起きています。幸い警備員が止めて事なきを得ていますが、精神的な催眠作用が強く、放置すればいずれ犠牲者が出ます」
「野柳か。あの『女王の頭』などの風化岩で有名な海沿いの岬だな」 蓮は短い言葉と共に、カローラ・アルティスのキーを手に取った。 「海には、水難事故で命を落とした者たちの念が溜まりやすい。日が落ちる前に片付けるぞ」
2.奇岩と夕闇の浸食
潮の香りと強烈な海風が吹き付ける野柳地質公園。 海岸線に沿って、キノコのような形をした奇岩が立ち並ぶ風景は、まるで別の惑星に降り立ったかのような異物感がある。
一般の観光客が退去し、立入禁止のテープが張られた夕暮れの岬を、二人は静かに進んでいった。
「……先輩、波の音に混じって、かなり重い『陰の気』が流れてきます」
美鈴がケルトの魔術回路を開き、翠色の瞳で薄暗い海岸線を見渡した。足元の影からは、分霊の黒犬・シャドウが這い出し、海に向かって毛を逆立てている。
『……ツメタイ……』 『……コッチヘ……キテ……』
波の音に混ざって、確かにくぐもった声が聞こえ始めた。 すると、波打ち際からドロドロとした黒い霧が這い上がり、無数の半透明の影となって奇岩の周りに群がり始めた。
「水鬼……海で溺死し、自分の身代わりを求めて生者を海へ引きずり込もうとする水難者の霊か」
蓮は静かに帰真剣を背に負い直した。
「奇岩の特殊な形状が、海を彷徨う霊たちにとっての『灯台』のような役割を果たして、念を集めてしまっているみたいです!」
美鈴が叫ぶと同時に、影たちが二人の生きた気に反応し、一斉に襲いかかってきた。
3.潮騒の祓清
「シャドウ、あの影たちがこれ以上内陸に行かないように牽制して!」
美鈴の指示で、シャドウが弾丸のように飛び出し、影たちに吠え立てて意識を海側へと引きつける。
「まずは陸への道を塞ぐ!」
蓮は懐から三枚の符を素早く引き抜き、影たちと自分たちの間、海岸の岩場に寸分の狂いもなく投げ放った。
「道法無辺、急々如律令!」
鋭い言霊が海風を切り裂き、符がバチィッ!と青白い光を放つ。 道教の結界が見えない壁となって海岸線に展開し、影たちの進行をピタリと食い止めた。結界に触れた黒い霧が、ジュッと音を立てて弾かれる。
『……ナゼ……サマタゲル……』
行き場を失い、巨大な一つの念の渦となって荒れ狂う水鬼たちの集合体。 霊感の弱い蓮だが、シャドウの吠える位置と、美鈴の
「先輩、波打ち際の岩と岩の間です!」
という的確なナビゲートがあれば、核の位置は見誤らない。
蓮は結界を維持したまま静かに歩み寄り、背中の帰真剣を抜き放った。
「海は広く、冷たいかもしれない。だが、見ず知らずの他人を道連れにしていい理由にはならない」
下段に構えた直剣が、波音を切り裂いて静かに、しかし鋭く跳ね上がる。幽霊を傷つけるためではなく、現世への執着を断ち切り、あの世へと送るための剣閃。
「帰真――本来の姿へ還れ」
浄化の真言と共に放たれた剣の波紋が、巨大な念の核を正確に貫いた。 パチン、と水風船が割れるような音と共に、影たちを形作っていた黒い霧が、海風に乗ってキラキラと輝く光の粒子へと変わっていく。 迷い子たちは、奇岩の灯台から離れ、本来還るべき場所へと優しく昇っていった。
4.亀吼漁港の蟹
「終わりましたね……」
完全に日が落ちた海岸で、美鈴が安堵の息をつき、シャドウを影の中へ戻した。 奇岩の周りに漂っていた不気味な気配はすっかり消え去り、後にはただ、穏やかな潮騒だけが残っている。
「ああ。海から吹き込む念を完全に止めることはできないが、これでしばらくは安全だろう。……さて、帰るか」
蓮が帰真剣を布で包み直して歩き出そうとすると、美鈴が小走りで隣に並んだ。
「せ、先輩! 帰る前に、少しだけ寄り道しませんか?」
「寄り道? こんな夜の海岸でか?」
「野柳のすぐ隣に、亀吼漁港っていう美味しい海鮮の市場があるんです! 萬里蟹っていうブランド蟹が有名で、蒸したての蟹や新鮮なエビが……」
美鈴の翠色の瞳が、夜の闇の中でも期待でキラキラと輝いている。
蓮はやれやれと首を横に振った。
「後輩さんは海で霊障を祓った直後に、海のものを食おうと思えるんだな……」
「それとこれとは話が別です! しっかり働いた後は、地元の美味しいものを食べて経済を回さないと!」
「……分かった、分かった。市役所からの報酬も入るしな。ただし、食べ過ぎるなよ」
「やったー! 先輩、ありがとう!」
潮風が吹き抜ける夜の野柳地質公園を背に、二人はカローラ・アルティスに乗り込んだ。 怪異の影が潜む台湾の海辺でも、彼らの日常は温かい海鮮の湯気と共に、今日も賑やかに続いていく。




