第七十六話「裏路地の探偵と翡翠の呪い」
台湾祓清愛哀歌 第七十六話「裏路地の探偵と翡翠の呪い」
1.紫煙と持ち込まれた厄介事
「フッ、ハッ!」 台北市大同区、双霊相談事務所。早朝の湿った空気の中、佐藤蓮は静かに息を吐きながら八極拳の套路(型)を打っていた。床を踏み鳴らし、体内の気を巡らせる。これは怪異と対峙するためではなく、祓清という過酷な生業において自己の心身を律し、健康を保つための日課であった。
蓮がタオルで汗を拭っていると、事務所のドアがギィと鳴り、くたびれたトレンチコート姿の男が入ってきた。台北の裏路地で探偵を営む呉である。彼はくわえタバコを携帯灰皿に押し付けると、深くため息をついた。
「朝っぱらから精が出るな、佐藤君。ちょっと厄介な相談があってね」
デスクでiMacに向かっていた李美鈴が、淹れたての烏龍茶を差し出した。
「おはようございます、呉さん。厄介な相談って、また裏社会の揉め事ですか?」
「揉め事なら私の領分なんだが、今回は『そっち』が絡んでいてね」
呉は烏龍茶をすすると、トレンチコートのポケットから一枚の写真を取り出した。そこには、美しい緑色をした古い翡翠の指輪が写っていた。
「萬華区のチンピラ連中の間で、持ち主が次々と精神を病む『呪いの指輪』が取引されている。元はどこかの金持ちの墓から盗まれたものらしい。今、その指輪を持っている男が古い倉庫に身を隠しているんだが……私の情報網によると、その倉庫の周辺で『黒い影』を見たという証言が相次いでいる。私一人じゃ、物理的な殴り合いはできても、幽霊相手には拳が当たらないんでね」
「出処の分からない古い宝石には、過去の所有者の執着や未練がこびりついていることが多い。霊界への『門』が開いて以来、そういった念が実体化しやすくなっているからな」
蓮は帰真剣を手に取り、布で丁寧に包んだ。
「分かった。呉さんの依頼なら断れない。行こう、後輩さん」
2.萬華の古い倉庫
夜の萬華区。ネオンが輝く表通りから一本裏に入ると、そこは古いトタン屋根の建物が密集するディープな暗がりとなっていた。
呉を先頭に、黒のカローラ・アルティスを降りた蓮と美鈴、そして分霊の黒犬・シャドウが、入り組んだ路地を進んでいく。
「この奥の第4倉庫だ。……静かすぎるな」
呉がトレンチコートの懐に手を入れたまま、鋭い視線を配る。
倉庫の錆びた鉄扉を呉が蹴り開けると、中は強烈な冷気とカビの臭いが充満していた。 床には、指輪を持ち逃げしたはずの男が泡を吹いて倒れており、その手から転がり落ちた翡翠の指輪が、不気味な青白い光を放っていた。
「出ますよ、先輩!」
美鈴がケルトの魔術回路を開き、叫んだ。シャドウが牙を剥いて唸り声を上げる。
指輪から噴き出したどす黒い霧が、天井付近で巨大な人影のような形をとっていく。
『カエセ……ワタシノモノ……ドロボウ……』
怨念の声が倉庫内に響き渡ったその時、入り口から数人の男たちが雪崩れ込んできた。指輪を追ってきた別のチンピラたちだ。
「おい、指輪はどこだ! ……って、ヒィッ!? なんだあの化け物は!」
実体化した怨念が、チンピラたちに向かって黒い触手を伸ばす。霊感がない者にもはっきりと視認できるほどの強烈な霊障だ。
「馬鹿野郎、逃げろ!」
呉が叫び、腰を抜かしたチンピラたちの首根っこを掴んで強引に後方へ引きずり下がる。 「佐藤君! こいつらは私が外へ避難させる! あとは頼んだ!」
3.探偵の援護と祓清
「助かる、呉さん! 一般人がいては術が使いにくいからな!」
蓮は素早く懐から三枚の符を引き抜いた。 倉庫の空間を把握し、怨念の広がりを封じ込めるための位置を見定める。
「道法無辺、急々如律令!」
鋭い声と共に放たれた符が、指輪を中心に三角形の結界を展開する。 バチィッ!という音と共に道教の光の壁が立ち上がり、チンピラたちへ伸びていた黒い触手が弾き飛ばされた。
『ギャアアァァァッ!』 怨念が咆哮を上げ、結界を内側から激しく叩く。
「先輩、怨念の核は指輪そのものです! でも、霧が濃すぎて正確な位置が……!」
美鈴が目を凝らすが、結界の中で荒れ狂う念の渦が視界を遮っていた。霊感の弱い蓮にとってはなおさらだ。
その時、外へチンピラたちを放り出してきた呉が、倉庫の入り口から叫んだ。
「嬢ちゃん! 犬を右へ走らせろ!」
呉の指示の意図を瞬時に理解した美鈴が、「シャドウ、右!」と命じる。 シャドウが右側へ動いた瞬間、呉がトレンチコートのポケットから取り出した大型のジッポライターに火をつけ、結界の中へ思い切り投げ込んだ。
カァン! 金属製のライターが、床に落ちていた翡翠の指輪に命中し、火花を散らす。 その一瞬の火花と甲高い音が、暗闇の中での明確な標的となった。
「そこか!」 蓮の体が弾かれたように前へ出る。 背に負っていた帰真剣を静かに、だが流れるような動作で抜き放ち、結界の中へと踏み込んだ。
「帰真――本来の姿へ還れ」
迷いのない一閃が、床の指輪の上空、怨念が最も凝縮された空間を両断する。 剣先から放たれた浄化の波紋が、古い翡翠に宿っていた執着を断ち切った。黒い霧は断末魔と共に霧散し、光の粒子となって暗い倉庫の天井へ吸い込まれていく。
4.大人の流儀
「ふぅ……一件落着だな」
蓮は帰真剣を鞘に収め、結界を解いた。
倉庫の床には、ジッポライターと、ただの美しい宝石に戻った翡翠の指輪が転がっていた。 呉が近づき、ライターと指輪を拾い上げる。
「いやはや、見事な剣さばきだ。私のような裏の人間は、物理的な証拠や足跡は追えても、目に見えない未練や呪いまでは断ち切れないからね。あんたたちには頭が下がるよ」
呉はライターでタバコに火をつけ、深く煙を吐き出した。
「呉さんの援護のおかげですよ。あの機転がなければ、位置の特定に時間がかかっていました」
美鈴がシャドウを撫でながら微笑む。
「さて、この指輪は持ち主へ返して、厄介な裏社会のゴタゴタもこれで手打ちだ。……佐藤君、李さん、手伝ってもらった礼をしないとな」
呉が探偵らしいシブい笑みを浮かべる。
「おっ! 報酬ですか? それとも美味しいごご飯ですか?」
美鈴の翠色の瞳が、夜の闇の中でもキラキラと輝いた。
「ここから少し歩いたところに、私が昔から通っている行きつけの屋台があってね。そこの滷味(ルーウェイ・台湾風煮込み)と台湾ビールは最高なんだ。今夜は私が奢ろう。嬢ちゃんには甘いお茶もつけてやる」
「やったー! 呉さん太っ腹!」
「おいおい、俺は車だからビールは飲めないんだが……」
蓮が呆れたようにぼやくが、美鈴はすでに滷味のことで頭がいっぱいのようだ。
萬華の入り組んだ路地裏を、トレンチコートの探偵と、道士、魔女、そして黒犬が並んで歩いていく。 裏社会の泥臭い現実と、科学で割り切れない怪異。二つの世界が交差するこの街で、彼らの頼もしい協力関係は、温かい煮込み料理の湯気と共にさらに深まっていくのだった。




