第七十五話「ファインダーの向こう側」
台湾祓清愛哀歌 第七十五話「ファインダーの向こう側」
1.特ダネと呪いのネガ
台北・大同区。早朝の双霊相談事務所には、今日も佐藤蓮の踏み込む足音が規則正しく響いていた。 「フッ、ハッ!」 八極拳の套路(型)は、彼の心身の健康を保つための重要な日課だ。霊障という不可視の重圧に対抗するため、自らの内なる気を練り上げ、体幹を鍛える。
蓮がタオルで汗を拭い、デスクに向かおうとしたその時だった。
「た、大変です! 佐藤先生、李先生!!」
事務所のドアが勢いよく開き、フリーの若手記者、黄が血相を変えて飛び込んできた。いつもの元気な様子はなく、顔面は蒼白で、首から下げた一眼レフカメラを両手でしっかりと抱え込んでいる。
「おはようございます、黄さん。朝からどうしたんですか?」
李美鈴がiMacから視線を上げ、不思議そうに首を傾げた。
「こ、これを見てください!」
黄が差し出した現像済みの写真には、台北の歴史的街区・大稲埕にある赤レンガの古い洋館が写っていた。しかし、どの写真の隅にも「黒い手」のようなモヤが写り込んでおり、枚数を重ねるごとに、その手がカメラを構える黄のほうへ近づいてきているように見える。
「昨日の夕方、大稲埕にある閉鎖された古い写真館を取材したんです。そうしたら、夜中からカメラのシャッターが勝手に切れるようになって……。しかも、最後に撮れた写真、この黒い手が私の首を絞めようとしてるんです!」
黄は涙目で訴えた。
「古い写真館か。被写体の念や、そこに定着した記憶が『門』の残滓と結びついて怪異化したのだろう」
蓮は写真を見つめ、静かに帰真剣を手に取った。
「カメラを通じてお前にマーキングしているな。出向いて元を断つしかない」
2.大稲埕の洋館
三人と一匹は、黒のカローラ・アルティスで大稲埕へと向かった。 古い問屋街の路地裏にひっそりと建つその洋館は、ツタに覆われ、かつてのハイカラな面影を残しつつも不気味な静寂を保っていた。
館の中に入ると、色褪せた背景布や、ホコリを被ったアンティークの調度品が散乱していた。
「……寒気がします。建物全体に、過去の記憶がこびりついています」
美鈴がケルトの魔術回路を開き、翠色の瞳を凝らす。分霊の黒犬・シャドウも、毛を逆立てて低く唸り声を上げている。
『……シャッターヲ……キレ……』 『……ワタシヲ……エイエンニ……ノコセ……』
どこからともなく、古いフラッシュの炊かれるような「バチッ」という音と共に、無数のざわめきが響き渡った。 壁に飾られたままの古いモノクロ写真から、ドロドロとした黒い霧が抜け出し、人型の影となって三人を包囲し始める。
「後輩さん、シャドウ! 援護を頼む!」
蓮の指示で、シャドウが影たちに向かって飛びかかり、鋭い牙で黒い霧を引き裂いていく。しかし、影は次から次へと写真の中から無限に湧き出してきた。
「ダメです、先輩! これらの影はただの残像です! 大元の『核』を叩かないとキリがありません!」
美鈴が叫ぶが、館内には無数のカメラや写真が散乱しており、どこから念が発生しているのか特定できない。霊感の弱い蓮にとっては、濃い霧が視界を遮るばかりだった。
3.記者の眼
「私が……私が探します!」
怯えて背後に隠れていた黄が、意を決したように一眼レフカメラを構えた。
「霊能力はないけど、私の目はカメラのレンズを通せば『真実』を切り取れるはずです!」
黄はファインダーを覗き込み、フラッシュを連続で焚きながら部屋の中を見回した。 閃光が暗闇を切り裂く一瞬、レンズの特殊なコーティングと黄の「真実を写したい」という執念が、霊的な波長と偶然にもシンクロした。
「視えました! 佐藤先生、あそこです!」
黄が指差したのは、部屋の最奥、暗幕を被せられたまま放置された大正時代の大型カメラ(蛇腹カメラ)だった。そのレンズの奥底で、どす黒い念の塊がドクドクと脈打っている。
「でかした、黄さん! 後輩さん、シャドウを引かせてくれ!」
蓮は懐から三枚の符を素早く引き抜き、素早い歩法で影たちをかいくぐって大型カメラの周囲へ到達した。
「道法無辺、急々如律令!」
鋭い言霊と共に、符が大型カメラを囲むように展開し、強力な結界を形成する。 写真から湧き出していた無数の影たちが、結界に引かれるようにしてピタリと動きを止めた。
「永遠を望む気持ちは分かる。だが、お前が残すべき時間はとっくに終わっているんだ」
蓮は背中から帰真剣を引き抜き、結界の中の大型カメラへ向けて、迷いのない一閃を振り下ろした。幽霊を現世から切り離す、送魂の剣。
「帰真――本来の姿へ還れ」
浄化の波動が大型カメラを貫く。 『バシャッ!』という強烈なフラッシュのような光が部屋全体を包み込み、黒い霧は真っ白な光の粒子となって、古いネガフィルムが焼けるように消滅していった。
4.ボツ写真とスイーツ
「ふぅ……無事に終わりましたね。黄さん、怪我はないですか?」
美鈴が安堵の息をつきながら、へたり込んでいる黄に手を差し伸べた。
「は、はい……。助かりました、本当に……」
黄はホッとした表情を浮かべた後、ハッとして自分のカメラの再生画面を確認した。
「あ、あれ!? 昨日撮った心霊写真の『黒い手』が、全部ただのピンボケになってる! 今さっき撮った写真も、ただの古い部屋しか写ってません!!」
「霊の未練が浄化されたんだから、霊障の痕跡も消えるのが道理だろう」
蓮が帰真剣を布に包みながら、冷静にツッコミを入れる。
「そんなぁー!! せっかくの『呪いのカメラ大特集』の特ダネがパーじゃないですかぁ!!」
黄がカメラを抱えてその場に泣き崩れた。
「まあまあ、黄さん。命があっただけでも大スクープですよ」
美鈴が苦笑いしながら黄の肩を叩く。
「そうだ、この近くの迪化街に、美味しい豆花のお店があるんです。特ダネを逃した残念会も兼ねて、みんなで甘いもの食べに行きましょう!」
「豆花……タピオカと白玉もトッピングしていいですか?」
黄が涙目で顔を上げる。
「もちろん! 先輩の奢りですから!」
「おい、俺は一言も……」
蓮の抗議は、美鈴と黄の明るい笑い声にかき消されてしまった。シャドウも「ワン!」と同意するように吠えている。
大稲埕のレトロな街並みを、三人と一匹が歩いていく。 特ダネは逃したかもしれないが、彼女のカメラのファインダーには、間違いなくこの街の平和を取り戻した英雄たちの背中が、しっかりとピントを合わせて写し出されていた。




