第七十四話「獅子林(シーズーリン)の幻影迷宮」
台湾祓清愛哀歌
第七十五話「獅子林の幻影迷宮」
1.日常の型と迷宮の噂
早朝の双霊相談事務所。
開け放たれた窓から流れ込む台北の湿った風の中、佐藤蓮は静かに息を吐き、八極拳の套路(型)を繰り返していた。踏み込み、腕を押し出し、気を練る。これは霊と戦うための武術ではなく、祓清という精神をすり減らす生業において、彼自身の心身の健康を保つための欠かせない日課であった。
「先輩、おはようございます。今日も朝から床を軋ませてますね」
出勤してきた李美鈴が、デスクのiMacの電源を入れながら声をかけた。
「ああ。体が資本だからな。……それで、今日の予定は?」
蓮はタオルで汗を拭い、傍らの帰真剣を手に取った。
「西門町にある商業ビル、『獅子林大廈』での依頼です」
美鈴が画面を見つめながら言う。
「獅子林……ああ、あの迷路みたいに入り組んだ古いビルか」
「はい。低層階は携帯電話の修理屋や仕立て屋で賑わってますけど、もともとあの土地は日本統治時代や戦後に色々な歴史があった場所で、陰の気が溜まりやすいんです。昨日、上の階にある古い映画館を探して迷い込んだ若者たちが、『終わらない廊下』に閉じ込められてパニック状態になったそうで」
「建物の複雑な構造と、そこに澱んだ陰の気が共鳴して、局地的な『迷宮』を作り出しているわけか」
蓮は短く頷き、カローラ・アルティスの車のキーを手に取った。
「行くぞ、後輩さん」
2.終わらない廊下
若者の街・西門町は、昼間からネオンと人々の熱気に包まれていた。
しかし、巨大な「獅子林大廈」の中に一歩足を踏み入れると、外の喧騒が嘘のようにくぐもって聞こえる。エスカレーターを上るにつれ、小さなテナントがひしめき合う独特の閉塞感が二人を包み込んだ。
映画館のある上層階へ向かう廊下の途中で、美鈴の足元から分霊の黒犬・シャドウが這い出した。シャドウは低く「グルル……」と唸り、前方の薄暗い通路を睨みつける。
「……ここから先、空間が歪んでいます。建物の念が、霊界への『門』の残滓と結びついて、一種のループ空間を作っているみたいです」
美鈴がケルトの魔術回路を開き、翠色の瞳で周囲の気配を読んだ。
蓮にはただの古びた廊下にしか見えないが、肌を刺すような冷気と、どこからか聞こえてくる『カタカタカタ……』という古いフィルムの回る音が、ここが既に正常な空間ではないことを告げていた。
二人が足を踏み入れると、背後の景色がぐにゃりと歪み、帰り道が壁と同化して消滅した。
『ココハ……ドコ……?』
『デグチガ……ナイ……!』
過去にこの複雑な建物で迷った人々の不安や、かつてこの地で命を落とした者たちの孤独が、フィルムのノイズに混じって響き渡る。
「まるで巨大な念の吹き溜まりだな」
蓮は動じることなく、静かに呼吸を整えた。
3.迷宮を断つ剣
廊下の奥から、無数の「顔」を継ぎ接ぎしたような巨大な黒い霧が迫ってきた。それは実体を持たないまま、二人を終わらない迷宮の暗闇へと引きずり込もうとしている。
「シャドウ、本体の核を探して!」
美鈴の叫びに応え、シャドウが幻影の廊下を壁蹴りしながら飛び回り、黒い霧の周囲を警戒に駆け抜ける。やがて、霧の中心付近――古い映画のチケット売り場のような幻影の前に向かって、鋭く吠え立てた。
「先輩、あそこです! 幻影の中心に一番濃い念の塊があります!」
「了解だ。空間ごと縛り付ける」
蓮は懐から三枚の符を素早く引き抜き、前方の床と両側の壁に向けて正確に放った。
「道法無辺、急々如律令!」
鋭い言霊と共に、符がバチィッ!と強烈な光を放つ。道教の結界が展開され、無限に続くように見えたループ空間が本来の「ただの古い廊下」の広さへと強制的に固定された。
逃げ場を失った黒い霧が、激しいノイズを上げて暴れ狂う。
「ここから出してやろう。お前たちの帰る場所は、こんな薄暗い迷路じゃない」
蓮は姿勢を低く落とし、背中に負った帰真剣を静かに抜き放った。
霊感の薄い蓮だが、シャドウの吠える位置と美鈴のナビゲートがあれば、標的を見誤ることはない。
「帰真――本来の姿へ還れ」
踏み込みと共に放たれた下からの一閃が、霧の核を正確に両断した。
フィルムが焼き切れるような音と共に、廊下を満たしていた冷気が一瞬で霧散する。幻影の迷宮は崩壊し、非常口の緑色のランプがチカチカと点滅する、現実の獅子林大廈の廊下が戻ってきた。
4.西門町のジャンクフード
「ふぅ……無事に空間の歪みも消えましたね」
美鈴が安堵の息を吐き、シャドウを影の中へ戻した。
「ああ。建物が複雑すぎるせいで気が溜まっていただけだ。根本的な原因を取り除いたから、もう人が迷い込むことはないだろう」
蓮は帰真剣を布で包み直し、来た道を振り返った。今度はしっかりと、下層階へ続くエスカレーターが見えている。
獅子林大廈の外に出ると、夏の台湾の強烈な日差しと、若者たちの笑い声が二人を迎えた。
「終わってみればあっという間でしたね。……あ、先輩!」
美鈴が何かを見つけて、翠色の瞳を輝かせた。
「西門町に来たら、やっぱり『阿宗麺線』は外せませんよね! カツオ出汁のとろとろスープに、モツがたっぷり入ったやつ! 立ち食いですけど、最高なんですよ!」
「お前は本当に、霊障の直後でも食欲が落ちないな……」
蓮は呆れたようにため息をついた。
「だって、あの迷路を歩き回ったらお腹が空いちゃいましたもん! 交通費と経費で、先輩のおごりですよね?」
「……まあ、いいだろう。ただし、大盛りは禁止だ。夕飯が食えなくなるぞ」
「やったー!」
ネオンと看板がひしめく西門町の雑踏の中、日本人の道士と香港人の魔女は、カツオ出汁の香りに誘われて歩き出す。怪異と隣り合わせの街で、彼らの騒がしくも平穏な日常は今日も続いていく。




