第七十二話「高美湿地の水鏡」
台湾祓清愛哀歌 第七十三話「高美湿地の水鏡」
1.夕暮れの逢魔が時
黒のトヨタ・カローラ・アルティスが、海岸線沿いの風力発電の風車を横目に走っていく。 助手席では、李美鈴が台中名物の太陽餅タイヤンビンをかじりながら、ノートパソコンの画面を見つめていた。
「先輩、ポロポロこぼしてすみません。でも、台中の市役所から直接依頼が来るなんて珍しいですね。林さんが推薦してくれたんでしょうか」
「かもしれないな。だが、仕事の基本は変わらない。……それで、現場の状況は?」
運転席の佐藤蓮が、フロントガラスの向こうに広がる景色に目を細めながら尋ねた。
目的地は「台湾のウユニ塩湖」とも称される絶景スポット、高美湿地ガオメイシーディーだ。普段なら夕日を反射する美しい水鏡を求めて多くの観光客で賑わう場所だが、ここ数日、奇妙な霊障事件が多発していた。
「夕暮れ時になると、湿地の水面に『無数の青い火の玉』が浮かぶそうです。それに魅入られた観光客たちが、催眠状態に陥って次々と泥深い湿地へ歩き出してしまうとか。幸い、泥に足を取られて動けなくなったところを救助されているので死者は出ていませんが、極度の精神衰弱を引き起こしています
」
美鈴が太陽餅の欠片を払い落とし、翠色の瞳に真剣な光を宿した。
「水鏡が霊界の門と共鳴して、幻惑の作用を増幅させているのかもしれないな。日が沈みきる前に片付けるぞ」
2.水面の迷い子たち
二人が高美湿地に到着した頃には、辺りはすでに逢魔が時の深い紫色に染まっていた。 観光客の立ち入りが規制された木造の遊歩道を、蓮と美鈴は静かに進んでいく。足元の浅瀬には、シオマネキやムツゴロウの姿はなく、ただ不気味なほど波一つない水面が広がっていた。
「……出ますよ、先輩」 美鈴の足元の影から、分霊の黒犬・シャドウが音もなく這い出した。シャドウは質量を持たないため、水面の上を波紋一つ立てずに駆け出し、ある一点に向かって低く唸り声を上げた。
その直後、湿地のあちこちで青白い火の玉がポツポツと灯り始めた。 火の玉は水面に反射し、まるで無数の目が二人を見つめ返しているかのような錯覚に陥らせる。
『……コッチヘ……オイデ……』
風に乗って、すすり泣くような声が鼓膜を揺らす。かつて海で命を落とした者たちの残留思念が、湿地の鏡面効果によって寄り集まり、巨大な「迷い火」の集合体となっていたのだ。
「霊感が薄い俺の目にも、水面が歪んで見える。強烈な催眠作用だ」
蓮は目を細め、惑わされないよう丹田に気を沈めた。
「シャドウ、火の玉を散らして! 本体の位置を特定します!」
美鈴がケルトの魔術回路を開き、視界を霊的な波長に合わせる。シャドウが水面を縦横無尽に駆け回り、幻影の火の玉を次々と噛み砕いていくと、木道のすぐ数十メートル先に、一際濃い黒い霧の塊が浮かび上がった。
「先輩、あそこです! 水の底から這い上がろうとしている一番大きな念の塊が、本体です!」
3.鏡を割る一閃
「位置さえ分かれば十分だ。逃がさない」
蓮は懐から三枚の符を流れるような動作で引き抜いた。霊の動きを封じ込めるため、迷いのない所作で木道の先と水面に向けて符を放つ。
「道法無辺、急々如律令!」
鋭い言霊と共に、符が淡い光の結界を展開した。結界は見えない壁となって、這い寄ろうとしていた黒い霧をその場に縫い付ける。
『……ツメタイ……ダレカ……』
霧の中から、寂しさを訴える無数の思念が溢れ出そうとする。しかし、蓮の展開した道教の結界は揺るがない。 蓮は静かに息を吐き、背中の鞘から中国風の直剣――帰真剣グイジェンジエンを抜き放った。
「誰もがお前たちを救えるわけじゃない。これ以上、生者を巻き込むな」
美鈴の指示とシャドウの唸り声が重なるポイントへ向け、蓮は剣を上段から静かに、そして真っ直ぐに振り下ろした。幽霊を斬るためではなく、現世に縛り付ける未練を断ち切り、あの世への道を拓くための剣の軌跡。
「帰真グイジェン――本来の姿へ還れ」
浄化の真言が響き渡ると同時、剣先から放たれた波動が水面を走り抜けた。 パチン、と薄いガラスが割れるような音と共に、黒い霧の塊が光の粒子となって空へと昇っていく。湿地を漂っていた青白い火の玉も、幻のようにすべて消え去った。
4.夜風と逢甲夜市の誘惑
「終わりましたね……」 美鈴が安堵のため息をつき、シャドウを影の中へ戻した。
完全に日が沈んだ高美湿地の水面には、幻惑の霧の代わりに、美しい星空と遠くの街の明かりが鮮やかに反射していた。本来の「水鏡」の姿を取り戻したのだ。
「ああ。美しい場所には、時に強い念が溜まりやすい。これで明日からは、また普通の観光地に戻るだろう」
蓮は帰真剣を布で丁寧に包み直した。
「ふふっ。せっかく絶景スポットに来たんですから、証拠写真を撮っておきますね。事務所のブログの更新用に!」
美鈴がデジタルカメラを取り出し、水鏡を背景にピースサインを作る。
「霊障事件の現場でピースをする祓清業者がどこにいる。あまりふざけた写真をアップするなよ」 「いいじゃないですか! 平和になった証拠です。……それより先輩、無事に依頼も終わりましたし、帰り道はもちろん分かってますよね?」
美鈴が翠色の瞳をキラキラと輝かせて蓮を見上げる。
「……台中最大の夜市、逢甲フォンチア夜市か」
「大正解です! 地瓜球さつまいもボールに大腸包小腸(もち米腸詰め)! あとタピオカミルクティーも外せません! 交通費は市役所から出ますし、先輩の奢りでパーッと行きましょう!」
蓮は呆れたように肩をすくめたが、その口元には微かな笑みが浮かんでいた。
「食い過ぎて帰りの車で寝るなよ、後輩さん」
夜風が吹き抜ける中、二人は並んで木道を歩き出す。 水鏡の絶景を背に、次なる食の目的地へと向かう彼らの足取りは、どこまでも軽やかだった。




