第七十一話「回路に潜む澱み」
台湾祓清愛哀歌 第七十二話「回路に潜む澱み」
1.沈黙する先端技術
新竹科学工業園区。台湾経済を牽引する巨大な工場群の夜景は、まるで地上の星空のように眩い。しかし、その中枢にある半導体メーカーのクリーンルームは、いまや異様な沈黙に包まれていた。
「先輩、空気の密度が違います。湿度が低いのに、肌にまとわりつくような重たさがある……」
李美鈴が防護服の下で眉をひそめた。彼女の翠色の瞳には、最新鋭の製造装置の隙間に絡みつく、毒々しい青白い光――電子回路に寄生する「霊的な澱み」が視えている。
佐藤蓮は、首に巻いたタオルを締め直し、帰真剣グイジェンジエンの鞘に手を添えた。 「ああ。機械の稼働音に混じって、絶えず誰かの『溜息』が聞こえる。……過労で倒れた技術者の念が、装置の磁場に定着したか」
現場には二人しかいない。工業団地のセキュリティ上の制約から、極秘裏に処理を完了させる必要があったのだ。
2.デジタルの迷宮
「シャドウ、配置について」
美鈴の合図で、黒いラブラドールレトリバーの姿をした分霊が、クリーンルームの床を滑るように駆け抜ける。シャドウが特定の場所で吠えると、そこから黒い霧が噴出し、製造装置のインターフェースが異常な速度で明滅し始めた。
『……オワラナイ……モット……スピードヲ……』
ノイズ交じりの声が、スピーカーを通じて室内に響く。それは一つの魂の声というよりも、幾人もの技術者の「終わらない残業」の念が混ざり合った、歪な集合体だった。
「霊がサーバーの計算資源を奪って、自らの存在を強化している!」
美鈴が即座に分析する。
「先輩、装置の基板を破壊しちゃダメです! データが消失したら賠償がとんでもないことになります!」
「承知した。物理的に破壊せず、霊の核だけを強制的に分離する」
「道法無辺、急々如律令!」
蓮は符を三枚取り出し、装置の四隅に配置した。彼の霊感は鈍いが、装置から発せられる「磁場の歪み」は肌で感じ取ることができる。結界の錨を下ろした。
3.極限の調律
霊体は、装置の冷却システムを暴走させ、室内の温度を急激に下げ始めた。吐く息が白く凍りつく中、蓮は無心で帰真剣を構える。
「美鈴、結界を絞れ! 奴を装置のメインフレームから押し出すぞ!」
「はいっ!」
美鈴がケルトの魔術で結界を収縮させる。クリーンルーム内の空気が限界まで圧縮され、装置にへばりついていた青白い回路のような霧が、物理的な圧迫に耐えかねて浮き上がった。
『……ハヤク……カエリタイ……』
零れ落ちた本音が、室内の静寂を切り裂く。 蓮はその一瞬を逃さなかった。鞘に収めたままの帰真剣で、浮き上がった霧の核を的確に突く。
「帰真グイジェン――本来の姿へ還れ」
剣先から放たれた浄化の波紋が、装置の基板を傷つけることなく、霊的な異物だけを溶かしていく。バリバリと火花を散らしていたモニターが、一瞬にして正常な表示に戻った。 室内の冷気も、嘘のように消え失せた。
4.月夜の静寂
工場の屋上にて。 二人を待っていたのは、夜の闇に浮かぶ無数の街灯だった。
「終わりましたね。データの消失もゼロです。……林さんも喜んでくれるはずです」 美鈴が安堵の息を漏らす。防護服を脱いだ彼女の髪が、夜風に揺れていた。
「ああ。だが、ここはあまりに効率を求めすぎる場所だ。あんな念の塊、ここにはいくらでも生まれかねないな」
蓮は帰真剣を背負い直し、少し離れた場所に座るシャドウの頭を撫でた。
「先輩、帰り道に夜市へ寄る時間はありますか?」 美鈴が上目遣いに尋ねる。
「……新竹ビーフンか?」
「正解です! 頑張ったご褒美、必要ですよね?」
「やれやれ。お前の胃袋は、機械以上に効率的に動くな」
蓮は呆れたように笑いながら、カローラ・アルティスのキーを回した。 台北への帰り道。助手席で楽しげに次の食べ物の計画を立てる後輩を見ながら、蓮はふと思う。幽霊が日常の風景となったこの世界で、こうして誰かと共に夜を過ごせることこそが、何よりの救いなのかもしれない、と。
二人の影が、工場の明かりを背に、長く台北の方向へと伸びていった。




