第六十八話「終電車と地下鉄のルール」
台湾祓清愛哀歌
第六十八話「終電車と地下鉄のルール」
1.飲食禁止の攻防
「あーっ、もう! 悠遊カードのチャージ、すっかり忘れてました……!」
夜も更けた双霊相談事務所に、李美鈴の情けない声が響いた。 彼女はプラスチックのIC乗車券『悠遊カード』をデスクにペチペチと叩きつけながら、空っぽのガマ口財布を覗き込んで肩を落としている。
「駅の券売機でエラー音が鳴って恥ずかしい思いをしたばかりじゃないか。後輩さん、コンビニで無駄遣いしすぎなんだよ」
佐藤蓮が、愛剣『帰真剣』
の手入れをしながら苦笑した。
「だって、出たばかりの新しいタピオカミルクティーを見つけたら買っちゃうじゃないですか! ……あ、先輩! 今からパパイヤミルク買いに行きたいんですけど、現金貸してくれませんか? 今月のお給料から天引きで!」
「却下だ。こんな夜中に甘いものを飲んだら……」
蓮が説教を始めようとしたその時、デスクの分厚いブラウン管のiMacからけたたましい着信音が鳴り響き、市役所の林担当員からのビデオ通話が繋がった。
『佐藤君、李さん! 緊急の出動要請です!』 粗い画質越しに見える林担当員は、切羽詰まった表情だった。 『台北の地下鉄(MRT)板南線パンナンシェン、台北駅から西門シメン駅へ向かう最終電車内です。車両の一部が局地的な霊障空間に隔離され、残業帰りの会社員が一人、中に閉じ込められました!』
「地下鉄の車内か。地下深くの密閉空間は、陰の気が溜まりやすいからな」
蓮は布で帰真剣を素早く包み、立ち上がった。
「了解しました、すぐに向かいます。後輩さん、悠遊カードは置いていけ。仕事で改札を通してもらうぞ」
「はいっ! シャドウ、行くよ!」
分霊の黒犬・シャドウが元気よく吠え、二人は夜の台北へと飛び出した。
2.隔離された最終電車
MRT西門駅。若者で賑わう地上とは対照的に、シャッターが半分下ろされた地下構内は不気味なほど静まり返っていた。 警察の手引きで改札を抜け、ホームへと降り立った二人の前に、一台の銀色の車両が停車していた。
「……ひどい霊障です。あの最後尾の車両だけ、完全に『異界』と接続されています。日々の満員電車で溜まった人々の『疲労』や『ため息』が、地下の湿気と結びついて巨大な念の塊になったみたいです」 美鈴が翠色の瞳を凝らし、ケルト系魔術の視界で車両を覆うどす黒いオーラを捉えた。
「疲労の集合体か。働きすぎの現代社会が生み出した怪異だな」
蓮は帰真剣の布を解き、閉ざされた車両のドアの前に立った。
「開けるぞ」
蓮が手動でドアをこじ開け、車内に足を踏み入れた瞬間――空気が一変した。 清潔なはずの車内は、水底のように重く冷たい空気に満たされ、窓ガラスには外からペタペタと無数の「黒い手」が張り付いている。 そして車両の奥のプラスチック製の青い座席では、スーツ姿の男性が青ざめた顔で虚空を見つめ、無数の『サラリーマンの影』に囲まれて首を絞められそうになっていた。
『ツカレタ……ヤスミタイ……ミチヅレニ……』 壊れたラジオのノイズのような精神波が、車内に響き渡る。
「休みたいなら一人で眠れ。疲れているのはみんな一緒なんだよ。真面目に働いている人間を巻き込んで迷惑を掛けるな」
蓮は短く吐き捨て、構えを取った。
3.車内の近接戦闘
「シャドウ、あの人を守って!」
美鈴の叫びに応え、シャドウが座席の上を飛び跳ねるように駆け抜け、男性に群がる影たちを鋭い牙で引き剥がした。
「ギィィィッ!」
獲物を奪われた影たちが一斉に振り返り、黒い泥のような腕を伸ばして蓮へ襲いかかる。 しかし、ここは狭い地下鉄の車内。大きな武器を振り回すには適していない。
「後輩さん、核はどこだ!」
「天井のエアコンの吹き出し口です! あそこに一番濃い念が張り付いています!」
「了解だ。……道法無辺、急々如律令!」
蓮は前方に三枚の符を放ち、即席の結界で影たちの突進をガードする。 結界がミシミシと軋む中、蓮はあえて帰真剣を抜かず、鞘に収めたままの状態で姿勢を極端に低くした。
「ふっ!」 鋭い呼気と共に、蓮の体が弾丸のように前方に飛び出す。
「今だ!」 蓮は手すりを蹴って跳躍し、空中で帰真剣を抜き放った。 狭い空間でも確実に両断できるよう、剣の軌道をコンパクトに絞り込む。
「帰真――本来の姿へ還れ!」
下から上へとすくい上げるような鋭い剣閃が、天井のエアコンの吹き出し口にへばりついていた黒い念の核を、正確に真っ二つに斬り裂いた。
ガラスが割れるような甲高い音と共に、車内を満たしていた重い空気が一瞬にして吹き飛ぶ。 窓に張り付いていた手も、サラリーマンの影たちも、浄化の光の粒子となってフワリと消え去った。
4.MRTのルール
「う、うーん……?」 座席で気絶していた男性が、目を瞬かせて身を起こした。
「気がつきましたか? もう大丈夫ですよ」
美鈴が優しく声をかけると、男性は自分のネクタイを緩めながら、深く安堵の息を吐いた。
「ふぅ……。狭い場所での祓清は骨が折れるな
」 蓮は帰真剣を鞘に収め、天井の蛍光灯が正常な明るさを取り戻した車内を見渡した。
「お見事でした、先輩! これでミッション・コンプリートですね!」
美鈴が明るい声で言いながら、自分の肩掛けカバンをごそごそと漁り始めた。
「あー、緊張したら喉が渇いちゃいました。事務所からマイボトルの冷たいお茶を持ってきてたんです。先輩も飲みますか?」
美鈴がボトルのフタを開けようとした瞬間、蓮がすかさずその手首をガシッと掴んだ。
「待て、後輩さん」
「えっ? なんですか?」
「ここは台北のMRTの車内だ。水だろうがお茶だろうが、飲食をしたら多額の罰金を取られるルールを知らないわけじゃないだろう?」
蓮がジロリと睨むと、美鈴は「あっ!」と声を上げてボトルをカバンの奥底へ押し込んだ。
「そ、そうでした! 幽霊よりMRTの罰金(最高7500台湾ドル)の方がリアルに痛いです! ただでさえ今、お財布がピンチなのに……!」
「全く、調子がいいんだから」
蓮が呆れたようにため息をつくと、シャドウも同意するように「ワン」と鳴いた。
「地上に出たら、西門町の屋台で好きなものを飲ませてやる。パパイヤミルクだったな?」
「本当ですか!? やったー! 先輩ありがとう!」
無事に救出された男性を連れ、三人は深夜のMRT構内を地上へと向かって歩き出す。 幽霊電車という非日常の恐怖は去り、厳しい飲食禁止のルールと夜市の誘惑が待つ、台湾の愛すべき日常がそこには戻っていた。




