第六十六話「暁の廃病院と杏林医院(四大心霊スポット篇・四)」
台湾祓清愛哀歌
第六十六話「暁の廃病院と杏林医院(四大心霊スポット篇・四)」
1.最凶の廃病院
東の空が白み始めた頃、黒のトヨタ・カローラ・アルティスは台湾南部の古都・台南市に到着した。
街の中心部に異物のように佇む、巨大なコンクリートの廃墟。かつて台南最大級の総合病院として栄えながらも閉院し、数十年にわたり放置され続けた台湾最凶の心霊スポット『杏林医院』である。
「……さすがは最凶と言われるだけはあります。これまでの三箇所を合わせたよりも、ずっと濃くて重い霊障が渦巻いています」
車を降りた李美鈴は、廃病院から漂うドロドロとした死と苦痛の匂いに、思わず顔をしかめて身震いした。
「無理もない。ここは多くの命が救われた場所であると同時に、多くの命が絶望の中で消えていった場所だからな。……だが、俺たちがやることは変わらない」
佐藤蓮が美鈴の肩にポンと手を置くと、その温もりとブレない気配に、美鈴の緊張が少しだけ解けた。
「はい。行きましょう、先輩。シャドウ、前を頼むわね」
「ワン!」
分霊の黒犬・シャドウが先導し、二人は割れたガラスと落書きだらけの正面玄関から、漆黒の廃病院内部へと足を踏み入れた。
2.怨嗟の手術室
内部は物理的な荒廃と、異界の法則が混ざり合った異様な空間だった。
散乱したカルテや錆びた車椅子が転がる廊下の奥から、聞こえるはずのない心電図のモニター音や、苦痛に呻く人々の声が精神波となって押し寄せてくる。
「……先輩、地下の手術室です! そこに最も強大な念の塊と、行方不明の若手社員の気配があります!」
美鈴の翠色の瞳が、コンクリートの床を透かして地下から立ち昇るどす黒い怨念を捉えた。
二人は崩れかけた階段を駆け下り、重い観音開きの扉を蹴り開けて地下手術室へと突入した。
そこは、地獄のような光景だった。
錆びついた手術台の周囲には、包帯や点滴の管のような形状をした無数の「霊障の触手」が蠢いていた。そして、その触手の中心で、旅行会社の若手社員が宙吊りにされ、巨大な肉の塊のような怨念の集合体へとゆっくりと取り込まれようとしていた。
「助け……て……」
若手社員の虚ろな声が漏れる。エセ霊媒師に無理やり先頭を歩かされた結果、彼はこの病院に留まる「病魔と死への恐怖」の依り代にされてしまったのだ。
「シャドウ、あの触手を引きちぎって!」
美鈴の叫びと共に、シャドウが影の刃となって跳躍し、若手社員に絡みつく霊障の触手を次々と引き裂いていく。
「ギイィィィィッ!!」
獲物を奪われそうになった巨大な怨念の塊が、手術室の壁を震わせるほどの轟音で咆哮した。無数のメスや注射器の幻影が、吹雪のように二人に向かって飛来する。
3.命の尊厳を断つ刃
「道法無辺、急々如律令!」
蓮が両手から放った十数枚の黄色い符が、二人の前面に分厚い光の防壁を展開した。医療器具の幻影が結界に突き刺さり、けたたましい音を立てて弾け飛ぶ。
「病の苦しみ、救われなかった絶望……。ここは確かに、あなたたちの無念が染み付いた場所だ」
結界の背後で、蓮は黒い布を払い、霊剣『帰真剣』を静かに抜き放った。
「だが、生者を恐怖で縛り付けても、苦痛は癒えない。……その痛みの連鎖、俺がこの剣で終わらせる!」
「先輩、対象の核は手術台の真上、一番色が濃く濁っている部分です!」
美鈴のナビゲートを受け、蓮は八極拳の『震脚』で踏み込んだ。
爆発的な推進力で結界から飛び出した蓮は、振り下ろされる無数の触手を紙一重で躱し、怨念の塊の真正面へと肉薄する。
「帰真――本来の姿へ還れ」
静謐な真言と共に、下段から逆袈裟に振り上げられた刃が、ドロドロとした怨念の核を正確に両断した。
空間がガラスのようにひび割れる音と共に、手術室を満たしていた濃密な闇が弾け飛ぶ。
切り裂かれた怨念の塊は、まるで長年の呪縛から解き放たれたように、温かい純白の光の粒子へと変わり、天井を抜けて天へと昇っていった。
同時に触手が消滅し、宙から落下してきた若手社員を、シャドウが柔らかい影のクッションとなってふわりと受け止めた。
4.四大心霊スポット巡りの終幕
「……う、うーん……」
廃病院の外へ運び出された若手社員が、眩しそうに目を覚ました。
「気がつきましたか? もう大丈夫ですよ」
美鈴がペットボトルの水を差し出しながら微笑むと、彼は自分が助かったことを理解し、その場で崩れ落ちるように号泣し始めた。
蓮は大きく伸びをして、帰真剣を鞘に収めた。
東の空からは、眩しい朝日が昇り始め、最凶の廃墟をオレンジ色に優しく照らしている。
ピロリン、と蓮の携帯電話が鳴った。台北で待機している陳巡査部長からだ。
『佐藤君! 監視カメラの映像で、行方不明だった社員が君たちと一緒に外へ出たのを確認した! これで被害者は全員無事に救出されたな! 本当に、本当によくやってくれた!』
陳巡査部長の弾んだ声の奥から、林担当員の「報告書、お待ちしてますからねー!」という嬉しそうな声も聞こえてくる。
「ええ、ミッション・コンプリートです。……ただし、美鈴の深夜の買い食い代と、台湾縦断のガソリン代はたっぷり請求させてもらいますからね」
蓮が冗談めかして言うと、電話の向こうで陳巡査部長が豪快に笑った。
電話を切り、蓮が振り返ると、美鈴が朝日に照らされながらシャドウと一緒に大きく背伸びをしていた。
「お疲れ様、後輩さん。長い夜だったな」
「お疲れ様です、先輩! いやぁ、さすがに台湾を縦断しての連続祓清は骨が折れましたね」
「全くだ。台北に帰ったら、まずは泥のように眠ろう」
「賛成です! あ、でもその前に、途中で台南名物の牛肉湯を食べて帰りませんか? 朝一番のスープは最高なんですよ!」
霊障の死線を潜り抜けた直後だというのに、全く食欲の衰えない相棒のたくましさに、蓮は呆れたように、しかし心底楽しそうに笑い声を上げた。
「……はははっ、敵わないな。分かった、奢るよ」
「やったー!」
人間の愚かな好奇心が生み出した、前代未聞の心霊バスツアートラブル。
台湾の四大心霊スポットを巡る長く過酷な夜は終わり、双霊相談事務所の二人は、輝く朝日と美味しい朝食の待つ日常へと、再びカローラ・アルティスを走らせるのだった。
「暁の廃病院と杏林医院」及び四大心霊スポット篇 完




