第六十話「春節の空港、帰郷の約束」
第六十話「春節の空港、帰郷の約束」
1.赤に染まる街と旅立ち
2000年代初頭、台北。
街中が鮮やかな赤い提灯や春聯(赤い紙に縁起の良い言葉を書いたもの)で彩られ、爆竹の音が遠く響き渡る季節――「春節(旧正月)」がやってきた。一年で最も台湾が活気づき、人々が故郷へと帰る大切な時期である。
双霊相談事務所もこの時期ばかりは休業となる。佐藤蓮は日本へ、李美鈴は香港へ、それぞれ一時帰国して家族と過ごすのが二人の毎年の恒例だった。
「ふぅ……すごい人だな。高速道路も渋滞していたし、空港も満員御礼だ」
蓮は黒いトヨタ・カローラ・アルティスを中正国際空港(現在の桃園国際空港)の駐車場に停め、大きなスーツケースを二つ降ろしながら息をついた。
「春節ですからね! 台湾中のみんなが故郷に帰るんです。……あ、先輩、私のスーツケース重いので運ぶのお願いしますね!」
ダウンジャケットを着込んだ美鈴が、自分の足元で尻尾を振る黒いラブラドールレトリバーの『シャドウ』と共に、軽やかな足取りで出発ロビーへと向かっていく。シャドウは美鈴の分霊であるため、飛行機に乗る際は彼女の影の中にすっぽりと収まって一緒に帰国することができる。
「やれやれ、手荷物検査の前から人使いが荒いな、後輩さんは」
蓮は苦笑いしながら、自分の荷物と美鈴の重いスーツケース、そして黒い布で厳重に包まれた愛剣『帰真剣』をカートに乗せてロビーへと足を踏み入れた。国家公認祓清技能士の特権として特別な手続きを踏めば機内預け入れが可能とはいえ、手続きにはいつも神経を使う。
その時だった。
活気に満ちた出発ロビーの第三チェックインカウンター付近で、突然、数人の旅行客が次々とその場にへたり込んだのだ。
2.帰れなかった魂
「……え?」
「おい、大丈夫か!? 誰か、お医者さんを!」
周囲が騒然とし始める。へたり込んだ人々は皆一様に顔面を蒼白にし、激しい目眩と吐き気を訴えていた。
蓮には幽霊の姿は視えないが、長年培ってきた経験と肌を刺すような冷気で、即座に異常を察知した。
「……ただの貧血じゃない。強烈な霊障だ。後輩さん、視えるか?」
「はい、先輩。……最悪です。あそこのカウンターの前に、ものすごく濃い悲しみが渦巻いています」
美鈴はケルトの術式で瞳に魔力を集中させた。
彼女の視界に映ったのは、古びた人民服を着た老人の霊だった。老人は手作りの布鞄をきつく抱きしめ、何度も何度も掲示板のフライト情報を見上げては、声なき声で泣き崩れていた。
「……おじいさんの霊です。おそらく、ずっと昔に大陸から台湾へ渡ってきて、春節に故郷へ帰ることを夢見ながら、ついに帰れずに亡くなってしまった方の残留思念……。空港という『帰郷』のエネルギーが一番高まるこの時期と場所に引き寄せられて、具現化してしまったんだわ」
美鈴の足元で、シャドウが悲しげな鳴き声を漏らした。
3.チェックイン前の祓清
「なるほど。帰りたいと願うあまり、周囲の人間から無意識に生気を吸い上げてしまっているのか。……荷物を預ける前で助かった」
蓮はカートの陰に隠れるようにして、黒い布から帰真剣を引き抜いた。
「後輩さん、俺たちのフライトまであと何分だ?」
「ええと、搭乗手続きの締め切りまで残り40分です!」
「十分だ。一気に送るぞ」
蓮は懐から数枚の黄色い符を取り出し、人混みの死角から老人の霊を囲むように正確に投げ放った。
「道法無辺、急々如律令!」
展開された結界が、周囲の旅行客と老人の霊を遮断する。これ以上、霊障が拡散するのを防ぐと同時に、老人の魂を落ち着かせるための空間を作り出した。
「シャドウ、おじいさんの足元へ!」
美鈴の指示でシャドウが結界内へ飛び込み、老人に寄り添うようにお座りをした。犬の温かい霊気を帯びたシャドウの存在に、老人の霊がわずかに顔を上げる。
「家族の元へ帰りたい気持ちは、痛いほど分かる」
蓮は帰真剣を構え、八極拳の静かな歩法で結界の縁へと歩み寄った。
「だが、ここはもうあなたのいるべき場所じゃない。あなたの魂のパスポートは、俺が切ってやる」
蓮の言葉は、冷たい術者のものではなく、同じようにこれから故郷へ帰ろうとする一人の旅人としての温かさを持っていた。
美鈴の視線とシャドウの位置で、完全に中心を捉える。
「帰真――本来の姿へ還れ」
真言と共に、帰真剣が静かに空気を裂いた。
その瞬間、老人の霊を包んでいた重い未練の霧が晴れ渡る。美鈴の目には、老人がシャドウの頭を一度だけ優しく撫で、やっと故郷行きの飛行機に乗れたかのような安らかな笑顔を浮かべて、光の粒子となって昇っていくのが見えた。
4.空港の牛肉麺
「ふぅ……。春節の出発前に、思わぬ残業になったな」
蓮が素早く帰真剣を布に包み直し、スーツケースの上に置いた。
結界が解け、霊障が消え去ったことで、倒れていた旅行客たちも「あれ? 急に気分が良くなった」と次々に立ち上がり始めていた。
「お疲れ様です、先輩。とても温かい送魂でしたよ」
美鈴がシャドウを自分の影の中へと回収しながら、ほっとした笑顔を向ける。
「さて、手続きを急がないと本当に飛行機に乗り遅れるぞ。急ぐか、後輩さん」
「あ、待ってください先輩! 霊障のせいで少し時間が押しましたけど、まだあと30分あります! 荷物を預けたら、手荷物検査の前にあそこのフードコートに寄りましょう!」
美鈴が指差したのは、食欲をそそる八角と牛骨の香りを漂わせるレストランだった。
「香港に帰る前に、どうしても台湾の牛肉麺を食べておきたいんです! 先輩も日本に帰ったら当分食べられませんよ?」
「ははは。まさか出発の直前まで後輩さんの食欲に付き合わされるとは。まあいい、春節の景気づけだ、俺が奢ってやる」
「やった! さすが先輩、新年快楽!」
赤い提灯が揺れる空港の片隅で、熱々の牛肉麺をすすり合う二人。
互いの故郷へ帰る前の短い時間、彼らは祓清のパートナーとして、そして異国で共に戦う家族のような存在として、温かな春節のひとときを分かち合うのだった。




