第五十八話「悠久の宝物庫と玉笛の調べ」
第五十八話「悠久の宝物庫と玉笛の調べ」
1.国家級の極秘依頼
台北市大同区、双霊相談事務所。
朝の光が差し込む中、佐藤蓮は今日も八極拳の力強い套路とうろを踏んでいた。気迫のこもった足振りが床を鳴らすと同時に、デスクのiMacに向かっていた李美鈴が、信じられないものを見たというように声を上げた。
「先輩、ちょっと套路を止めてください! とんでもないところから極秘の直接依頼です!」
「ん? どうした、後輩さん。そんなに慌てて」
蓮は構えを解き、首元の汗をタオルで拭いながら美鈴のモニターを覗き込んだ。
「依頼主は……国立故宮博物院です。台湾が世界に誇る、あの超巨大な博物館ですよ!」
「故宮博物院だと? なぜ市役所を通さずにうちへ?」
「展示品に影響が出ると国際問題になりかねないから、内密かつ迅速に処理できる民間の腕利きを探していたみたいです。私のホームページの暗号化された問い合わせフォームから連絡が来ました。なんでも、最近寄贈された明みんの時代の『玉笛』を地下の特別収蔵庫に保管して以来、夜勤の警備員が次々と謎の昏睡状態に陥っているそうで……」
蓮の表情が引き締まる。歴史的価値のある国宝級の文物には、時として元の持ち主の強い情念が宿り、霊障を引き起こすことがある。
「分かった。すぐに準備をしよう。国宝が相手となると、結界の張り方にも相当気を遣いそうだ」
美鈴の足元で、出番を察知した黒い分霊の犬、シャドウが尻尾を振って立ち上がった。
2.歴史の眠る地下室
閉館後の夜。黒のトヨタ・カローラ・アルティスは、士林区の山裾に壮大な姿を構える故宮博物院に到着した。緑色の瑠璃瓦が暗闇の中で鈍く光り、建物全体が圧倒的な威厳を放っている。
二人は青ざめた顔の学芸員に案内され、何重ものセキュリティを抜けて地下の特別収蔵庫へと足を踏み入れた。
温度と湿度が厳密に管理された静寂の空間。しかし、その奥からは、機械の空調音とは明らかに違う、凍てつくような霊障の冷気が漏れ出していた。
蓮には何も視えないが、肌を刺すような鋭い気配に思わず顔をしかめる。
「……後輩さん、状況は?」
美鈴はケルトの術式で視覚を研ぎ澄まし、ずらりと並ぶ保管箱の一つを凝視した。
「……います。美しい翡翠色の玉笛のそばに、古い宮廷の衣装を着た男性の霊が。とても悲しそうな顔で、音の出ない笛を吹き続けています。霊障の範囲が広くて、このまま放置すれば上の展示室まで影響が出かねません」
シャドウが低い唸り声を上げ、その保管箱の前にそっと歩み寄る。歴史の荒波に揉まれ、本来演奏されるべき主を失った宮廷音楽家の嘆きが、現代の台北で霊障となって溢れ出していたのだ。
3.国宝を包む結界
「相手はただ悲しんでいるだけだ。だが、ここは故宮の収蔵庫。少しの衝撃でも周囲の国宝を傷つけかねない。極小範囲で結界を張るぞ」
蓮は懐から黄色い符を取り出すと、対象の保管箱を囲むわずか一メートル四方の空間に、精密なコントロールで四枚の符を放った。
「道法無辺、急々如律令!」
展開された結界は、他の文物には一切触れることなく、玉笛と音楽家の霊だけを正確に隔離した。霊が驚き、笛を吹く手を止める。
「シャドウ、威嚇はしないで。彼を安心させてあげて」
美鈴の優しい声に応じ、シャドウは結界のすぐ外でお座りをして、静かに尻尾を振った。その穏やかな姿に、音楽家の霊が少しだけ警戒を解くのが、美鈴には視えた。
「あなたの音楽を聴くべき人は、もうこの世にはいない。だが、その美しい笛は、これからも後世の人々に愛され続ける。だから、あなたはもう休んでいい」
蓮は帰真剣を鞘から抜き放った。
国宝を傷つけないよう、対象の数センチ手前で剣の軌道をピタリと止める、八極拳の極致とも言える神業の寸止め。そこから送魂の力が波紋のように広がっていく。
「帰真――本来の姿へ還れ」
蓮の深く透き通るような声が、地下収蔵庫に響き渡った。
美鈴の目には、音楽家の霊が一瞬だけ満足そうに微笑み、深く一礼をして光の粒子へと還っていく姿が映った。直後、収蔵庫を満たしていた致死量の冷気が、嘘のように消え去った。
4.士林の夜と美食の誘惑
「ふぅ……。かつてないほど剣を振るのに緊張したぞ。もし隣の白磁の壺でも割ってしまったら、一生タダ働きでも返せないからな」
蓮が帰真剣を布に包みながら、安堵の深呼吸をした。
「お見事でした、先輩! あの精密な結界と剣のコントロール、うちの事務所の宣伝動画にしてホームページに載せたいくらいです!」
美鈴が明るく笑いながら、シャドウの頭を撫でる。
学芸員からは涙ながらに感謝され、故宮博物院からは破格の特別報酬が指定の口座に振り込まれることが約束された。
外に出ると、台北の夜風が心地よく火照った身体を冷ましてくれる。
蓮が車のキーを取り出すと、美鈴が期待に満ちた瞳で彼を見つめていた。
「……分かっているよ、後輩さん。ここからなら士林夜市がすぐそこだ」
「やりました! 故宮の近くに来たら絶対に行こうって決めてたんです! 今日は特別報酬が入るんですから、熱々の生煎包シェンジエンバオ(焼き小籠包)と、薬膳排骨ヤオシャンパイグー(骨付き豚肉の薬膳スープ)をたらふく食べましょう!」
「ははは、相変わらず食欲だけは国宝級だな。よし、今日は特別に特大のタピオカミルクティーも付けてやる」
「先輩、最高です!」
カローラ・アルティスは、歴史の眠る荘厳な博物館を背に、世界中の観光客で賑わう光と匂いの海――士林夜市へと向かって走り出す。
何百年もの時を超えた哀しみを癒やした二人の夜は、台湾の美味しい空気と共に更けていくのだった。




