第五十六話「水と霧の埔里」
台湾祓清愛哀歌
第五十六話「水と霧の埔里」
1.中心への旅路
台北の喧騒を離れ、黒いトヨタ・カローラ・アルティスは南へと走っていた。高速道路を降り、緑深い山道へと入っていく。
「先輩、もうすぐ『埔里』に入りますよ。台湾のちょうど真ん中に位置する、お水がとっても綺麗な町です」
助手席の李美鈴が、iMacから印刷した地図を広げながら言った。
「ホリか……。確か、ウェイ師匠から聞いたことがある。『霊界の門』を開けたという、旧日本軍の実験場。それがこのホリのさらに山奥にあったという噂があるんだ」
佐藤蓮はハンドルを握りながら、険しくなる山並みに視線を向けた。
今回の依頼は、ホリの郊外にある古い日本統治時代の製糖工場跡地からだった。
最近、その跡地を観光地として再開発する計画が持ち上がったのだが、調査に入った作業員たちが次々と「霧の中で軍隊の足音が聞こえる」「奇妙な耳鳴りがして動けなくなる」と訴え、工事が完全にストップしてしまったのだという。地方自治体を通じて、国家公認祓清技能士である二人に白羽の矢が立ったのだ。
「実験場の噂と関係があるんでしょうか……」
美鈴の足元で、黒いラブラドールレトリバーの『シャドウ』が、主人の不安を察するようにその手に鼻先を押し当てた。
2.霧に消えた足音
車を停め、二人は鬱蒼とした森に囲まれた製糖工場跡へと歩みを進めた。
昼間だというのに、山の斜面から這い出してきた濃い霧が、古いレンガ造りの建物を飲み込もうとしている。
蓮には何も視えない。しかし、肌を刺すような独特の冷気と、かすかな耳鳴りが彼に警告を発していた。
「……どうだ、後輩さん。何か視えるか?」
蓮は美鈴の顔を覗き込む。
美鈴は静かに目を閉じ、ケルトの血に眠る霊感を研ぎ澄ませた。目を開けた彼女の瞳は、霧の向こうにある「異質の影」をはっきりと捉えていた。
「……先輩、想像以上に根が深いです。そこにいるのは、かつてここで働いていた民間人と、戦いを知らずに逝った若い兵士たちの混ざり合った念です。でも、枢栄会の呪詛のような悪意は感じません。ただ、時代の濁流に取り残されて、帰る場所を失って泣いています」
美鈴が小さく口笛を吹くと、シャドウが霧の中へと果敢に飛び込んでいった。
「ワン!」
シャドウの吠え声が響いた場所――工場の巨大なボイラー跡の前に、ぼんやりと何十人もの人影が浮かび上がった。彼らが放つ強い郷愁と悲しみの混ざった霊障が、濃霧となって辺りを支配していたのだ。
3.還るべき故郷への道
「後輩さん、下がっていてくれ。一気に包み込む!」
蓮は懐から十数枚もの黄色い符を扇状に広げて取り出した。
「道法無辺、急々如律令!」
蓮が符を投げると、それらはボイラー跡を取り囲むように宙で静止し、淡い光の壁――強固な結界を形成した。霊たちが驚いたように揺らめき、霧が激しく渦巻く。
「シャドウ、みんなを集めて!」
美鈴の指示を受け、シャドウは黒い疾風となって結界の内側を駆け回り、パニックを起こしかけた霊たちを中央へと誘導していく。
「よし、位置は固定されたな。……みんな、もう戦いも、苦しい労働も終わったんだ。安心して還ってくれ」
蓮は布をほどき、愛剣『帰真剣』を静かに引き抜いた。霊の姿は視えなくとも、美鈴の視線と、シャドウが抑え込んでいる位置で「中心」がわかる。
蓮は帰真剣を天に掲げ、八極拳の套路で培った揺るぎない踏み込みと共に、剣先で美しい弧を描いた。それは迷える魂に「門」を示す道標となる。
「帰真――本来の姿へ還れ」
魂の底に響くような蓮の送魂の真言が、ホリの山々にこだました。
結界の内部で、激しく渦巻いていた霧が、まるで洗われたかのように透明な光へと変わっていく。美鈴の目には、制服を着た少年や、作業着を着た人々が、互いに肩を寄せ合いながら、光の彼方へと歩んでいく姿が視えていた。
最後に一人の老人が、蓮と美鈴に向かって深く頭を下げ、消えていった。
気づけば、周囲を包んでいた濃霧は完全に晴れ、木漏れ日が古びたレンガの壁を暖かく照らしていた。
4.名水が育む温もり
「ふぅ……。人数が多かった分、送魂の通り道を広げるのに骨が折れたよ」
蓮が帰真剣を鞘に収め、額の汗を拭った。
「お疲れ様です、先輩。みんな、最後にありがとうって言っていましたよ。やっぱり、ここの霊たちはあの悲劇の『実験場』とは関係のない、ただ迷子になっていた人たちだったみたいです」
美鈴はシャドウを優しく抱きしめながら、ほっとしたように微笑んだ。
今回の件で、ホリの再開発も無事に再開されるだろう。市役所の林さんにも良い報告ができそうだ。
「さて、ホリといえば水が綺麗なことで有名だな。後輩さん、この近くに美味しい米粉の店があるって、さっき地図に書いてなかったか?」
蓮の言葉に、美鈴の顔がパッと明るくなった。
「よくぞ聞いてくれました、先輩! ホリの名水で作られたビーフンは絶品なんです! それに、食後には特産の百香果のジュースも絶対に飲みましょう!」
「ははは、了解だ。じゃあ、シャドウにも新鮮な水をたっぷり飲ませてやらないとな」
カローラ・アルティスは、山あいに広がる穏やかなホリの街並みに向かって、軽快に坂道を下っていく。
旧日本軍の影が今なお色濃く残るこの土地で、二人はまた一つ、哀しい記憶を温かな光へと還したのだった。




