第五十三話「黄昏の学び舎、終わらない放課後と学生街の匂い」
台湾祓清愛哀歌:第五十三話「黄昏の学び舎、終わらない放課後と学生街の匂い」
1.夕暮れの巨大キャンパス
「……敷地が広すぎる。大学のキャンパスの中に、小学校から高校まで全部入っているなんてな」
台北市内にある歴史ある私立小中高大一貫校。
佐藤蓮は、プリントアウトされた広大なキャンパスの案内図を見下ろしながら、思わずため息をついた。彼の背中には、愛用の『帰真剣』を収められている。
「台湾でも有数のマンモス校ですからね。敷地内にグラウンドがいくつもあるんですよ」
李美鈴は白のベイビーGで現在時刻を確認した。時刻は午後六時。すでに小学生や中学生は帰宅し、敷地内には部活動に励む高校生や、夜間講義に向かう大学生の姿がまばらに見える程度だった。
足元では、分霊のシャドウが芝生の匂いを嗅ぎながら、大人しく二人に付き従っている。
今回の依頼は、台北市役所の林担当員経由で学校の理事会から持ち込まれたものだった。
数週間前から、夕暮れ時になると『使われていないはずの旧校舎の鐘』が鳴り響き、それを聞いた生徒や学生がフラフラと旧校舎へ引き寄せられ、そのまま意識を失って倒れるという霊障事件が多発していた。
「被害に遭っているのは、小学生から大学生までバラバラだ。ただ、全員が『厳しい先生に、終わらない授業を受けさせられる夢』を見たと証言しているらしい」
「……教育熱心な幽霊、ということでしょうか」
2.終わらない七時間目
二人がツタの絡まる旧校舎の前に辿り着いたその時だった。
『カァァーン……、カァァーン……』
スピーカーから流れる現代の電子チャイムではない、真鍮製の古いハンドベルを直接打ち鳴らしたような、甲高くもひどく掠れた鐘の音が旧校舎から響き渡った。
「後輩さん!」
「はい、空間が歪みました。旧校舎全体が、強烈な霊的結界に覆われています!」
美鈴の生まれ持った霊感が、旧校舎を包み込む赤黒いオーラをはっきりと捉えていた。
同時に、グラウンドの隅や中庭にいた数人の学生たちが、ふらふらと虚ろな目をして旧校舎の入り口へと歩き始める。
「シャドウ、生徒たちを止めて!」
美鈴の指示でシャドウが駆け出し、旧校舎へ向かう学生たちの前に立ちはだかって鋭く吠え立てた。霊的な威圧を受けた学生たちはビクッと身体を震わせ、その場に糸が切れたように座り込む。
「生徒の保護は後輩さんに任せる。俺は元凶を叩くぞ」
「気をつけてください、先輩! 一番強い気配は、三階の旧理科室です!」
蓮は帰真剣を抜き放ち、薄暗い旧校舎の階段を一気に駆け上がった。
3.机の迷路と八極の歩法
三階の旧理科室の引き戸を蹴り開けると、そこは異様な空間と化していた。
本来なら撤去されているはずの古い木製の学習机がびっしりと並べられ、その奥の教壇に、擦り切れた国民服を着た初老の男の霊が立っていたのだ。
男の霊の目は落ち窪み、手にはひん曲がった出席簿を握りしめている。
彼の背後には、過去の凄惨な時代――満足に教育を受けられず、戦火や動乱の中で命を落とした無数の子供たちの『幻影』が、悲しそうに机に向かっていた。
『……授業ハ、マダ終ワッテイナイ。学バネバ、生キ残レナイノダ。サア、席ニ着キナサイ……!』
男の霊が出席簿を黒板に叩きつけた瞬間、教室内の空気が重力を持ったように蓮にのしかかってきた。さらに、並べられた無数の木製机が、まるで生き物のようにガタガタと動き出し、蓮を閉じ込めようと迫り来る。
「……なるほど。あんたの教育熱心は、子供たちを想う『悲しい時代』の未練から来てるってわけか」
蓮は帰真剣を斜めに構え、深く呼吸をした。
教室という極めて狭く、机という障害物が密集している空間。大きく剣を振りかぶる隙などどこにもない。
しかし、蓮の『八極拳』は、まさにこのような乱戦と狭所のためにある。
「――後輩さん、援護を!」
「はいっ! 大地の根よ、迷える教室を縛り付けよ!」
後から駆けつけた美鈴が廊下からケルト魔術の印を放つと、エメラルドグリーンの光の蔦が床から伸び、うごめく木製机を床に縫い付けるように拘束した。
机の動きが止まった一瞬の隙を突き、蓮は動いた。
障害物の間をすり抜けるような独特の歩法で、机と机のわずかな隙間を縫うように前進する。そして、教壇の目の前まで肉薄した瞬間、蓮は石の床を割らんばかりの強烈な『震脚』を踏み込んだ。
ドンッ!!
旧校舎全体が揺れるほどの踏み込み。その爆発的な反発力を、蓮は右手の帰真剣へと一直線に伝達させる。
「道法無辺――!」
蓮は剣を大上段から振り下ろすのではなく、胸元から真っ直ぐに突き出す最短距離の刺突を放った。剣の切っ先に巻かれた道教の符が、純白の「送魂の気」を放ちながら男の霊の胸を正確に貫く。
『……アァ……』
浄化の光が理科室全体を包み込む。
「もう戦火に怯える時代じゃない。今の子供たちは、安全な教室で明日を夢見ることができるんだ。あんたの授業は、もう終わりでいい」
蓮が静かに語りかけると、男の霊は目を見開き、そして憑き物が落ちたように穏やかな顔で頷いた。
『……そうか。終業の、時間か……』
男の霊と、幻影の子供たちは、教室の窓から差し込む夕日の中へと、光の粒子となって優しく溶けていった。
不気味だった旧校舎の空気はすっかり晴れ、後には静かな放課後の静寂だけが残された。
4.エピローグ:学生街の葱抓餅
「お疲れ様でした、先輩。学生さんたちも、ただの立ちくらみだと思って帰っていきましたよ」
すっかり日が落ちたキャンパスの正門前。
美鈴はホッとした表情であった。
「ああ。悲しい時代の未練だったが、これで彼らもゆっくり休めるだろう」
蓮は帰真剣を収め、肩を回して凝りをほぐした。
マンモス校の正門前には、学生たちを目当てにした安くて美味しい屋台がずらりと並んでいる。ソースの焦げる匂い、揚げ物の香ばしい匂いが、無性に二人の食欲を刺激した。
「先輩、夕飯の前にちょっと買い食いしませんか? 私、あそこの屋台の匂いでもう限界です」
「奇遇だな、俺もだ」
二人が立ち寄ったのは、学生街の定番おやつ『葱抓餅』の屋台だった。
鉄板の上で、ネギを練り込んだパイのような生地を、ヘラでバンバンと叩いて空気を含ませながら焼いていく。外はサクサク、中はもっちりとした食感がたまらない台湾のソウルフードだ。
「おばちゃん、卵と台湾バジル(九層塔)入りを二つ。辛いソースも塗ってくれ」
蓮が注文し、出来立てで熱々の紙袋を受け取った。
二人は屋台の横に立ち、フーフーと息を吹きかけながら葱抓餅を齧り付く。
「んんっ……! サクサクの生地にバジルの香りが最高です! ピリ辛のソースも食欲をそそりますね!」
美鈴が熱さに目を細めながら、幸せそうに頬張る。
蓮も口の周りにソースをつけながら、夢中で葱抓餅を平らげた。足元では、屋台のおばちゃんが特別に焼いてくれた味付け無しの小さな生地を、シャドウが尻尾を振りながらハグハグと食べている。
「こういう学生街の安くて美味いジャンクフードを食べると、自分の大学時代を思い出すな」
「本当ですね。台湾の大学に留学してきたばかりの頃を思い出します」
賑やかな学生たちの笑い声が行き交う夜の正門前。
時代を超えた悲しい霊障を無事に解決した双霊相談事務所の二人は、青春の匂いが漂う熱々の葱抓餅を頬張りながら、ささやかな買い食いの時間を楽しむのだった。




