第五話「市役所の憂鬱と、繋がる手のひら」
台湾祓清愛哀歌:第五話「市役所の憂鬱と、繋がる手のひら」
1.公務員の訪問
台北の夏は、逃げ場のない湿気と共にやってきます。
「双霊相談事務所」の天井では、年季の入った扇風機が頼りない音を立てて回っていました。
「……ふんっ!」
佐藤蓮は、短く鋭い呼吸と共に、八極拳の「ちょう靠」の型を空中に繰り出していました。背中の筋肉が躍り、空気がわずかに震えます。
「先輩、今日は一段と気合が入ってますね。でも、林さんがもうすぐ来るってメールありましたよ。着替えたらどうですか?」
iMacのモニター越しに、李美鈴がからかうように言いました。彼女は今日、新しく導入した画像編集ソフトで、ブログ用の写真の「霊障ノイズ」を消去する作業に没頭していました。
「ああ、わかっている。……よし、終わりだ」
蓮がタオルで汗を拭い、Tシャツを着替えたのとほぼ同時に、事務所のドアが控えめにノックされました。
「こんにちは。お忙しいところ、すみません」
入ってきたのは、台北市役所の祓清担当、林さんでした。いつもなら穏やかな彼女ですが、今日はその眼鏡の奥の瞳に、深い隈が張り付いていました。
「林さん、わざわざお越しいただくなんて。何か緊急の事案ですか?」
美鈴が椅子を勧めると、林さんは深々と頭を下げました。
「ええ……。実は、市営の保育園の建設予定地で、不可解な『現象』が続いていて。作業員たちが次々と体調を崩し、中には『子供に手を引かれた』と怯えて辞めてしまう人も出ているんです。このままでは開園が遅れてしまいます」
2.建設現場の「待ちぼうけ」
黒いトヨタ・カローラ・アルティスは、開発が進む大同区の北端へと向かいました。
現場は高いフェンスで囲まれていましたが、その一歩内側に足を踏み入れた瞬間、美鈴の表情が凍りつきました。
「……ひどい。空気が、泥みたいに重い」
彼女の隣で、シャドウが喉の奥で「グルル……」と低い警戒音を上げました。黒いラブラドールレトリバーの姿をした分霊は、誰もいないはずの基礎工事の穴をじっと見つめています。
「後輩さん、何が視える?」
蓮が帰真剣の柄に手をかけ、周囲を警戒します。彼には霊感はありませんが、肌を刺すような冷気で、そこが「異常」であることは理解できました。
「先輩、穴の底に……たくさんの『手のひら』が視えます。小さな、子供たちの手。それが地面から伸びて、通りかかる人の足首を掴もうとしているの」
美鈴の声が震えています。
「悪意じゃないわ。これ、寂しさなの。……ここ、戦時中は防空壕だった場所じゃないですか?」
林さんが資料をめくり、顔を青くして頷きました。
「はい。記録によると、空襲の際、近所の子供たちが逃げ込んだ場所だと……。でも、戦後の混乱で埋め戻され、今の今まで忘れ去られていたんです」
3.魂の解放:連鎖する送魂
「忘れていた……。それが、彼らにとっては一番の毒だったわけか」
蓮は数枚の符を取り出し、基礎工事の四隅に配置しました。
「林さん、少し下がっていてください。……後輩さん、シャドウで彼らを一箇所に集められるか?」
「やってみます! シャドウ、お願い!」
美鈴の号令と共に、シャドウが穴の中へ飛び込みました。影のように形を変えながら、散らばっていた子供たちの霊を、優しく誘導するように中央へと追い込んでいきます。
美鈴の目には、土にまみれた古い服装の子供たちが、シャドウに導かれて固まっていくのが見えました。
「今です、先輩! 正面、3メートル先!」
蓮は帰真剣を引き抜き、大きく一歩踏み込みました。八極拳で鍛えた軸は微動だにせず、剣先は正確に霊的エネルギーの渦の中心を捉えます。
「道法自然、魂帰天路――」
蓮の送魂は、力でねじ伏せるものではありません。行き場を失った霊たちのために、現世と「あちら側」を繋ぐ道筋を、一時的に切り拓く作業です。
「お前たちの遊び時間は、もう終わりだ。……次はもっと明るい場所で、お腹いっぱい食べられる世界へ行け」
剣先から放たれた温かな光が、泥のような冷気を溶かしていきました。
子供たちの霊は、一人、また一人と、何かに納得したように光の中へと吸い込まれていきます。最後に残った一人の少女が、そっと林さんの足元に歩み寄り、そのスカートの裾を一度だけ握ってから、消えていきました。
4.エピローグ:牛肉麺の温もり
現場を包んでいた重圧が消え、夕暮れの穏やかな風が吹き抜けました。
林さんは、少女の霊が触れた場所をそっと手で押さえ、涙を拭いました。
「……ありがとうございます。あの子たちのこと、忘れないように、新しい保育園の隅に小さな慰霊碑を建てるよう上司に掛け合ってみます」
「それが、一番の『祓清』になるかもしれませんね」
蓮が剣を鞘に収め、優しく微笑みました。
帰り道、三人は林さんの案内で、地元の人しか知らない「牛肉麺」の名店に立ち寄りました。
じっくり煮込まれた牛スジ肉が口の中でとろけ、薬膳の香りが効いた濃いスープが、霊障との戦いで冷え切った身体に染み渡ります。
「はふ……っ。ここのスープ、台北で一番かもしれないです……!」
美鈴が汗をかきながら、豪快に麺を啜ります。
「林さん、無理しないでくださいね。市役所の仕事も大変でしょうけど、何かあればすぐに俺たちを呼んでください」
蓮が言うと、林さんは少しだけ元気を取り戻したように笑いました。
「ええ。頼りにしていますよ、双霊相談事務所の『先輩』と『後輩』さん」
夜の台北。ネオンが輝き始める街角で、二人はまた一つ、この街に眠る哀しい記憶を、あるべき場所へと還したのでした。
次回、番外編をお楽しみに。




