第四十六話「最北の灯台、吹き荒ぶ風と魔女の網」
台湾祓清愛哀歌:第四十六話「最北の灯台、吹き荒ぶ風と魔女の網」
1.強風の岬、富貴角
「……うう、先輩。車のドアを開けただけで、身体ごと吹き飛ばされそうです!」
台湾最北端の地、新北市石門区・富貴角。黒のトヨタ・カローラ・アルティスから降りた瞬間、李美鈴はバタバタと激しく羽羽ばたくイブニングドレスならぬ防寒用のウインドブレーカーの裾を押さえた。
夜の岬には、海からの咆哮のような東北季節風が容赦なく吹き荒れている。波の砕ける音が地鳴りのように響く中、闇の向こうで白黒の縞模様に塗られた「富貴角灯台」が、規則正しく海を照らしていた。
「大丈夫か、後輩さん。ここは台湾でも特に風が強い場所だからな。車内に残っていてもいいんだぞ」
佐藤蓮は運転席から降りると、チェロケースから使い慣れた『帰真剣』を取り出した。足元では、分霊のシャドウが風に耳をパタパタと煽られながらも、低く身を構えて周囲を警戒している。
今回の依頼は、市役所の林担当員から直々に回ってきたものだった。
数日前から、深夜になると富貴角灯台の明かりが不気味な「紫琥珀色」に変わり、それに呼応するように、海から無数の影が這い上がってくるという。
「いえ、行きます。……もう、そこまで来ていますから」
美鈴の生まれ持った高い霊感が、強風に混ざる異質な「冷気」を捉えていた。
2.風に舞う符、届かぬ術式
二人が灯台の麓にある遊歩道に近づいたその時、灯台の放つ光が、前触れもなく禍々しい紫色へと変色した。
『……オォォォ……ォォ……』
風の音に混ざって、何十人もの、地を這うような呻き声が響き渡る。
美鈴の目には、波打ち際の岩陰から、びしょ濡れの衣服を纏った無数の「海の亡者」たちが、操られるように灯台の光を目指して這い上がってくるのがはっきりと見えた。かつてこの危険な海域で命を落とした、遭難者たちの迷える霊だ。
「後輩さん、位置を教えてくれ!」
「正面の岩場から一斉に上がってきます! 数が多すぎます!」
「よし、まずは動きを止める!」
蓮は懐から道教の符を数枚抜き取り、亡者たちの足元へ向かって投げ放った。
しかし――。
「しまっ……!?」
投げられた符は、亡者たちに届く遥か手前で、岬の猛烈な突風に煽られてあらぬ方向へと吹き飛ばされてしまった。暗闇の空高くへと舞い上がった符は、そのまま夜の海へと消えていく。
「くそ、これじゃあ符術の狙いが定まらない……!」
霊感の薄い蓮にとって、位置を正確に定められない上に、得意の符が風で流されるのは致命的だった。亡者たちの影は、確実に二人の距離を縮めてくる。
3.風を従えるケルトの魔術
「先輩、下がってください! 風の対処は私に任せて!」
美鈴が蓮の前に躍り出た。
彼女が幼少期に英国人魔女のイザベラから授かったケルト系魔術は、自然の精霊や、地水火風の力を借りる性質を持つ。このような大自然の暴風が吹き荒れる環境こそ、彼女の独壇場だった。
「シャドウ、前へ!」
美鈴の叫びに応え、元のサイズに戻ったシャドウが漆黒の疾風となって岩場を駆け抜ける。シャドウは亡者たちの前に立ち塞がると、風を切り裂くような鋭い咆哮を上げ、霊的な威圧で彼らの進軍をぴたりと足止めした。
美鈴は強風に向かって両腕を広げ、古代のルーンを紡ぐように、大声で呪文を唱え始める。
「――北の風よ、荒ぶる呼吸を我が指先に。現世の境界を侵す者を縛る、光の網となれ!」
美鈴の指先から、淡いエメラルドグリーンの光の糸が幾筋も放たれた。その糸は吹き荒れる東北季節風の気流に乗り、風の力を吸収しながら巨大な「光の網」へと急成長していく。
網は灯台の周囲を包み込み、押し寄せる亡者たちを優しく、しかし強固にその場へ縛り付けた。
「……すごいな。完全に風を味方にしている」
蓮が感嘆の声を漏らす。美鈴はさらに結界の術式を編み込み、自身の周囲の風の向きを強引に変えてみせた。
「先輩、今です! 私の結界の内部だけ、3秒間だけ無風の空間(台風の目)を作ります! そこから狙ってください!」
4.一瞬の無風と、最北の送魂
「感謝する、後輩さん!」
美鈴が合図を送った瞬間、蓮の周囲を激しく叩いていた暴風が、ピタリと嘘のように止んだ。
蓮はすかさず両足を深く開き、八極拳の基本である「馬歩」の構えをとる。大地の底に根を張るかのように体幹を固定し、一瞬の静寂の中で、今度は狂いのない正確さで新しい符を真っ直ぐに突き出した。
「道法無辺。――暗い海はもう終わりだ。この光の先にある、本当の還るべき場所へ行け!」
蓮は震脚の踏み込みと共に、帰真剣を天空へと突き上げた。
無風の空間を一直線に飛んだ符が、紫色の光を放つ灯台の光源へと命中する。同時に、帰真剣の刃から放たれた純白の送魂の波動が、美鈴の網に捕らえられていた亡者たちへと降り注いだ。
バキィン! とガラスが割れるような霊的音が響き、灯台の明かりが本来の、温かみのある純白の輝きへと戻る。
『……あぁ……温かい……』
亡者たちの呻き声は、安らかな吐息へと変わっていった。彼らは自身の姿を消し去り、灯台の白い光の筋に溶け込むようにして、静かに、優しく霊界へと旅立っていった。
岬に、再びいつもの激しい潮風の音だけが戻ってきた。
5.エピローグ:湯気の向こうの贅沢ちまき
「……ふう。一時はどうなるかと思ったが、後輩さんの機転に救われたよ。さすがは本場の魔術だ」
蓮は帰真剣をケースに収め、ウインドブレーカーの襟を立てながら微笑んだ。
「いえ、先輩の足腰の強さと、あの状況で一発で仕留める送魂の実力があってこそです。……でも、本当に寒かったですね」
美鈴は寒さで赤くなった鼻をすする。シャドウも元の大人しい黒犬の姿に戻り、寒そうに美鈴の足元に身体を寄せていた。
任務完了の報告を林担当員にメールで済ませた二人は、冷え切った身体を温めるため、石門区の街道沿いにある、夜間も営業している高名なちまき専門店へとカローラを走らせた。
車内のシートヒーターを最大にしながら、二人が手にしたのは、蒸したてで竹の皮から猛烈な湯気を上げる名物「石門肉粽」だ。
「うわぁ……! すごい具だくさんです。大きな豚肉に、椎茸に、栗まで入ってますよ!」
美鈴がフーフーと息を吹きかけながら、もちもちのちまきを一口頬張る。五香粉の香りと、具材の旨味が染み込んだもち米の濃厚な味が、冷え切った身体に染み渡っていく。
「こっちの、干しエビとピーナッツが入った小ぶりのちまきも絶品だ。台湾最北端まで来た甲斐があったな」
蓮も熱々のちまきをハフハフと口に運びながら、よく冷えたお茶で流し込んだ。
足元では、味付けのされていない特別に茹でてもらった豚肉を、シャドウがハグハグと嬉しそうに平らげている。
「先輩、今度の休日は、霊障の調査じゃなくて、完全にプライベートで美味しいものを食べに遠出したいですね」
「そうだな。その時は、後輩さんの行きたい場所へどこへでも車を出すよ」
窓の外では、遠くの富貴角灯台が、優しく静かに台湾海峡の夜の海を照らし続けていた。双霊相談事務所の二人の車内は、ちまきの温かい湯気と、任務を終えた安堵感で満たされていた。




