第四十五話「波間の幻影、豪華客船と夜のワルツ」
台湾祓清愛哀歌:第四十五話「波間の幻影、豪華客船と夜のワルツ」
1.海上のスイートルーム
「……先輩。私、こんなドレス着たの初めてです。それにこの部屋、私たちの事務所より広いんじゃないですか?」
台湾を周遊する超大型豪華客船『フォルモサ・クイーン号』のVIPスイートルーム。煌びやかなイブニングドレスに身を包んだ李美鈴が、ふかふかの絨毯の上で落ち着かない様子で周囲を見回していた。
「俺だって、タキシードなんて初めて着たよ。首元が窮屈で仕方ない」
佐藤蓮も、慣れない蝶ネクタイを引っ張りながらため息をついた。彼の傍らには、チェロ用のハードケースに偽装された『帰真剣』が立てかけられている。分霊であるシャドウは、普段のラブラドールレトリバーの姿から少しだけ縮み、大人しい黒い子犬の姿に偽装して部屋の隅のソファーで丸くなっていた。
二人がこの豪華客船に乗船しているのは、バカンスではない。船を運営する船会社の社長からの、直接の「極秘依頼」だった。
数日前から、夜の海域を航行中、乗客が何かに取り憑かれたように甲板へ向かい、歩き回る『集団夢遊病』が多発しているという。船の評判に関わるため、国家公認技能士である二人をVIP客として偽装乗船させ、事態の解決を図るのが今回の任務だ。
「そろそろ、魔の時間帯ね」
美鈴がバルコニーへ出ると、船はちょうど台湾海峡の沖合を航行していた。海風が吹き荒れ、周囲には濃い霧が立ち込め始めている。
2.並走する幽霊船
その時、船内のスピーカーから流れていた優雅なクラシック音楽に、ノイズのような「古いワルツの旋律」が混ざり始めた。
「……来ました。先輩、甲板です!」
美鈴の鋭い声に、蓮はチェロケースから帰真剣を抜き放ち、タキシード姿のまま部屋を飛び出した。
二人が夜の最上階デッキに駆けつけると、そこには異様な光景が広がっていた。
パジャマ姿やパーティードレス姿の数十人の乗客たちが、虚ろな目をしてフラフラと船の手すりへと歩みを進めている。そして、彼らが向かう漆黒の海の上には――。
「……あれは、古い客船か?」
霊感の乏しい蓮の目にも、濃霧の中に浮かび上がる巨大な「影」がはっきりと見えた。
それは、数十年前に台湾海峡で沈没したと思われる、前世紀の古い客船の霊だった。ボロボロになった幽霊船が、現代の豪華客船とピタリと並走しているのだ。
「先輩! あの幽霊船から、こちらに向かって何本もの『霊的なロープ』が投げ込まれています! 彼らは、自分たちの船の『足りない乗客』を、この船から補充しようとしているんです!」
美鈴が叫ぶ。乗客たちは、その見えないロープに操り人形のように引かれ、海へ飛び込もうとしていた。
3.揺れる甲板の八極拳
「させないわ! シャドウ!」
美鈴の合図で元のサイズに戻ったシャドウが甲板を駆け回り、海へ飛び込もうとする乗客たちに対し吠え、足止めしていく。
美鈴は素早くケルト魔術の印を切り、甲板に淡い緑色の光の網を展開した。乗客たちが次々と光の網に触れる事により、霊障からの干渉を一時的に抑えこまれ、その場に座り込む。
「乗客の保護は任せた。俺は、あの船との『繋がり』を断ち切る!」
蓮はタキシードのジャケットを脱ぎ捨て、帰真剣を構えて甲板の最前列へと躍り出た。
しかし、今日は波が高い。巨大な客船とはいえ、足元は不規則に大きく揺さぶられている。
普通の剣士ならまともに立つことすら難しい環境だが、蓮には日々の鍛錬で培った『八極拳』の土台があった。
蓮は両足を肩幅より広く開き、腰を深く落とす「馬歩」の構えをとった。
大地の代わりに揺れる甲板をしっかりと掴み、船の揺れと自身の重心を完全に同期させる。どれほど荒波が打ち付けようと、蓮の体幹は微動だにしない。
「道法無辺。――あんたたちの航海は、とうの昔に終わってる。新しい乗客を道連れにするな!」
蓮は甲板を踏みしめる震脚のエネルギーを剣先へと伝え、幽霊船から伸びる何本もの見えないロープに向かって、流れるような連続斬りを放った。
空気を切り裂く鋭い剣閃が、霊的な繋がりを次々と断ち切っていく。
バチィンッ! という弾ける音と共に最後のロープが切断されると、並走していた幽霊船はガクンと速度を落とした。
『……我々ノ、旅ハ……』
霧の向こうから、船長らしき者の嘆息が聞こえた気がした。
「ああ、終わりだ。深い海の底で、ゆっくり休んでくれ」
蓮が帰真剣の切っ先を下げて送魂の真言を唱えると、幽霊船は濃霧の中に溶けるようにして、静かに光の粒子となって消滅していった。
4.エピローグ:カラスミと真夜中の祝杯
「……ふう。タキシードで八極拳を打つもんじゃないな。肩周りが破れそうだ」
甲板の端で、蓮が肩を回しながら息を吐く。
周囲では、催眠から解けた乗客たちが「あれ? なんでこんな所に?」と不思議そうな顔をして、次々と船室へ戻っていくところだった。
「お見事でした、先輩。波の揺れを完全に相殺した剣さばき、美しかったですよ」
美鈴がケルトの結界を解き、微笑みながら歩み寄ってくる。シャドウも「任務完了」とばかりに、誇らしげに尻尾を振っていた。
数十分後。
無事に極秘任務を完遂した二人は、船長からの特別の計らいで、真夜中のラウンジを貸し切りにしてもらっていた。
「さあ先輩、お疲れ様の乾杯です!」
テーブルの上に並べられているのは、豪華客船のシェフが腕を振るった特製の夜食だ。台湾名物の高級食材・カラスミ(ボラの子の塩漬け)をふんだんに使った贅沢なパスタに、新鮮な伊勢海老のグリル。そして、美鈴の手にはノンアルコールのスパークリングサイダー、蓮の前にはよく冷えたシャンパンが置かれている。
「こんな高級な夜食、俺たちの事務所じゃ一生お目にかかれないな」
蓮がカラスミのパスタを口に運び、その濃厚な旨味と塩気に目を丸くする。
「ふふっ、たまにはこういう贅沢もいいじゃないですか。海の上での祓清、大成功でしたし」
美鈴もサイダーのグラスを掲げ、嬉しそうに笑った。足元では、船長から特別にもらった高級な茹で鶏のササミを、シャドウが無我夢中で平らげている。
窓の外には、幽霊船の霧がすっかり晴れ、満天の星空と穏やかな台湾海峡の波間が広がっていた。
豪華客船が刻む優雅なワルツの旋律を背景に、双霊相談事務所の二人は、海の上での特別な夜を心ゆくまで堪能するのだった。




