第四十四話「台北の冬時雨、凍える記憶と温かな湯圓」
台湾祓清愛哀歌:第四十四話「台北の冬時雨、凍える記憶と温かな湯圓」
1.骨まで沁みる湿気と寒さ
南国というイメージが強い台湾だが、台北の冬は意外なほどに厳しい。気温自体は一桁台までしか下がらないものの、雨が多く湿度が異常に高いため、冷気が「水滴」となって服を通り抜け、骨の髄まで直接沁み込んでくるのだ。おまけに多くの建物は夏の暑さ対策を優先した石張りで、暖房設備がないことも珍しくない。
「……さっむぅい。無理です、今日はもう一歩も外に出ません」
双霊相談事務所では、李美鈴が毛布にくるまり、まるで蓑虫のような姿でiMacの前に丸まっていた。足元では、寒がりのシャドウが電気ストーブの真ん前を陣取り、微動だにしない。
「お前たち、少しは体を動かしたらどうだ。気が滞るぞ」
佐藤蓮は長袖の道着姿(古びたジャージ)で、いつも通り八極拳の套路(型)をこなし、自らの内側から熱(気)を作り出していた。
そこへ、厚手のコートを着込んだ市役所の林担当員が、白い息を吐きながら駆け込んできた。
「佐藤さん、李さん! 寒いところごめんなさい、至急の依頼よ! 萬華区の古いアパートの一室から、異常な冷気が漏れ出して、同じ階の水道管が全部凍結して破裂しちゃったの!」
「台北で水道管が凍結……? 物理的にあり得ないな」
蓮が動きを止め、蓑虫状態の美鈴と顔を見合わせた。
「行くぞ、後輩さん。暖房の効いたカローラで現場まで直行だ」
2.氷点下の孤独
現場となった萬華区の古いアパートは、外の冷たい冬時雨を差し引いても、異様な空気に包まれていた。
問題の部屋の前に立つと、ドアノブには真っ白な霜が降りている。
「……ひどい冷気です。ストーブの前にいたシャドウが震えてますよ」
美鈴の足元で、シャドウが「くぅーん」と情けない声を漏らした。美鈴がケルトの探知魔術を展開すると、凍りついたドアの向こう側の景色が彼女の脳裏に流れ込んでくる。
「中にいるのは……お年寄りの男性の霊です。身よりもなく、この冷たい部屋で誰にも看取られずに亡くなった孤独死の霊……。彼自身の『寒かった、寂しかった』という強烈な残留思念が、周囲の物理法則を捻じ曲げて、空間そのものを氷点下に固定してしまっています」
「悪霊じゃない。だが、孤独と寒さの記憶に囚われ続けているのか」
蓮は静かに帰真剣のケースを開けた。
「力任せに祓えば、凍りついた魂ごと砕け散ってしまうかもしれない。……後輩さん、いつもの結界じゃなく、『熱』を作れるか?」
「任せてください。冷え切った心を溶かすのは、ケルトの得意分野です」
3.暖炉の火と断ち切る剣
蓮が凍りついたドアを蹴り破ると、部屋の中は文字通り「氷の洞窟」と化していた。
部屋の中央、古いロッキングチェアに座った白髪の老人の霊が、膝を抱えるようにして震えている。彼が吐き出す悲哀の息が、部屋の温度をさらに下げていた。
「シャドウ、力を貸して!」
美鈴が詠唱を紡ぐと、シャドウの黒い毛並みが一瞬だけ赤銅色に輝いた。ケルト神話の火と炉端の女神・ブリギッドの加護を応用した、精神的な「暖炉」の魔術だ。
美鈴の杖先から放たれた温かなオレンジ色の光が、老人の霊をドーム状に包み込む。
『……あぁ……あたたかい……』
光に包まれた老人の霊が、ゆっくりと顔を上げた。彼を縛り付けていた氷のオーラが、春の雪解けのようにポロポロと崩れ落ちていく。
「今です、先輩!」
「道法無辺。――もう、一人で震える必要はない」
蓮は凍てつく床を滑るように踏み込み、帰真剣を水平に薙いだ。
それは老人の霊を斬るのではなく、彼をこの寒々しい現世の部屋に縛り付けていた「孤独の鎖」だけを正確に断ち切る、限りなく優しい送魂の剣閃。
キィン、と澄んだ音が響く。
老人の霊は、ロッキングチェアからふわりと立ち上がった。その顔にはもう苦痛はなく、まるで日向ぼっこをしているような穏やかな微笑みが浮かんでいる。
『……ありがとう。いい、お湯加減だ……』
呟きと共に、老人の霊は温かな光の粒子となって、天井へと昇っていった。
直後、部屋を支配していた異常な冷気が嘘のように霧散し、台北の冬の、いつもの湿った空気が戻ってきた。
4.エピローグ:冬至の夜の湯圓
その夜。
冷え切った体を温めるため、二人は事務所の近くにある屋台の軒先に座り込んでいた。今日は奇しくも、台湾の冬の風物詩である『冬至』の日だった。
「おばちゃん、生姜シロップの湯圓を二つ! 紅白のやつね!」
美鈴が元気よく注文する。運ばれてきたのは、生姜がピリッと効いた熱々の甘いスープの中に、紅白の白玉団子(湯圓)がゴロゴロと入った台湾の伝統的な冬のスイーツだ。冬至の日にこれを食べると、歳を一つ取り、円満になると言われている。
「はふっ……はふはふっ! あぁ〜、生き返ります!」
美鈴が熱々の湯圓を頬張り、幸せそうに目を細める。シャドウには、生姜が入っていないプレーンな白玉が小皿で与えられていた。
「確かに、この生姜の辛味と甘さが、冷えた胃袋に直接効く感じがするな」
蓮もレンゲでスープをすすりながら、体の芯からポカポカと温まっていくのを感じていた。
「あの老人の霊も、最期は温かい気持ちで旅立てたでしょうか」
美鈴が、ふと真面目な顔をして呟いた。
「ああ。お前のあの温かい魔術と、今のこの湯圓。どっちも台北の厳しい冬には欠かせない特効薬だ」
蓮の言葉に、美鈴は照れ隠しのように笑い、自分の椀に入っていた赤い湯圓を一つ、蓮の椀にポンと移した。
「じゃあ先輩には、特別にもう一つお裾分けです。一人で食べるより、二人で食べた方が温かいですからね!」
台北の冬時雨がトタン屋根をパラパラと叩く中、小さな屋台の提灯の明かりの下で、二人は身を寄せ合うようにして温かな冬の味覚を堪能していた。




