第三十八話:「逃亡の凶報と、淡水河の夕凪」
台湾祓清愛哀歌:第三十八話「逃亡の凶報と、淡水河の夕凪」
1.逃亡の報せ
枢栄会の張姉弟を逮捕し、台北の街に平穏が戻ったと思われた数日後のこと。
双霊相談事務所の固定電話が、けたたましく鳴り響いた。
「……佐藤くん、すまない。最悪の報せだ」
受話器越しに聞こえる陳巡査部長の声は、かつてないほど沈み込んでいた。
「陳さん? どうかしたんですか」
「張志豪と麗華の姉弟が、留置所から逃走した。……奴ら、事前に自分たちの体に遅効性の『呪詛』を仕込んでいたらしい。昨夜、二人が突如として意識不明の催眠状態に陥り、病院への緊急搬送の際に交通事故が発生し、その混乱に乗じて姿を消した」
蓮の表情が険しくなる。横で聞き耳を立てていた美鈴も、息を呑んだ。
「警察の総力を挙げて行方を追ったが……先ほど、密輸船の手配師から証言が取れた。奴ら、すでに台湾の国外へ逃亡した可能性が高い」
「国外へ……!」
「面目ない。だが、奴らが台湾から消えた以上、我々台湾警察の管轄外となってしまった。佐藤くんたちも、念のため警戒を怠らないでくれ」
陳巡査部長との通話が切れると、事務所に重い沈黙が落ちた。
2.残る不安と、目の前の日常
「……逃げられたなんて。志豪の目的は、所在不明の『霊界への門』を探し出すことでしたよね。国外へ逃げたということは、台湾以外に門の手がかりがあると踏んだんでしょうか」
美鈴が不安げに、足元のシャドウを撫でながら呟いた。
旧日本帝国陸軍の思想に傾倒していた志豪。もし彼が向かった先が、蓮の故郷である日本だとしたら――。人を意識不明する事が出来るほどの強力な呪詛を使う事が出来る霊能者は、歴史上でも何人も居ないはず。そんな危険な力を持った人物が野放しになっている。
蓮は腕を組み、しばらく目を閉じていたが、やがてふっと息を吐いて目を開けた。
「考えても仕方ないさ。俺たちは国際警察でもなければ、世界を救うヒーローでもない。台湾という国に認められた、ただの『国家公認祓清技能士』だ」
蓮は壁に立てかけた帰真剣を手に取り、静かに布で拭き始めた。
「あいつらがどこで何を企んでいようと、今この瞬間に台北で霊障に苦しんでいる人がいるなら、それを助ける。それが俺たちの仕事だろ?」
その言葉に、美鈴の強張っていた肩の力がスッと抜けた。
「……そうですね。見えない影に怯えるより、目の前の迷子を助けないと。先輩の言う通りです」
美鈴がiMacのキーボードを叩き始めたその時、タイミング良くメールの着信音が鳴った。市役所の林担当員からの、新たな祓清依頼だった。
3.淡水の待ち人
その日の夕方。二人は愛車のカローラを走らせ、台北の北に位置する港町・淡水に到着していた。
夕日が淡水河の水面を黄金色に染める美しい景勝地だが、川沿いにある古いレンガ造りの倉庫の前だけ、異常なほどの冷気が漂っている。
「林さんからの情報だと、夕暮れ時になると倉庫の中から『波の音』と『すすり泣き』が聞こえ、近づいた観光客が次々と原因不明の高熱で倒れているそうです」
「典型的な地縛霊の霊障だな。美鈴、探れるか?」
「任せてください。シャドウ!」
美鈴の合図で黒犬が倉庫の扉をすり抜け、内部へと侵入する。数秒後、シャドウの吠え声が響いた。
美鈴は目を閉じ、シャドウと視覚を共有する。
「……見えました。水難事故で亡くなった青年の霊です。時代はずっと昔……。夕暮れの海に向かって、帰らない恋人をずっと待ち続けて、強い執着になってしまっています」
「なるほどな。なら、待ち人はもう来ないこと、そして彼自身が帰るべき場所を教えてやらなきゃな」
4.夕凪の送魂
倉庫の扉を開け放つと、内部には水草の生臭い匂いと、目に見えるほどの濃い霧が立ち込めていた。
霧の中から、青白い顔をした青年の霊が恨めしげな目を向けてくる。
「先輩、暴れますよ!」
美鈴が素早くケルト魔術の印を切り、淡い光の鎖を放つ。鎖は青年の霊の手足を縛り、その場に縫い留めた。結界による封じ込めだ。
「悪いな、少し荒療治になる。だが、ここはもうお前のいるべき時間じゃない」
蓮が帰真剣を抜く。夕日を反射した刃が、倉庫の暗闇の中で一筋の光の道を作った。
「道法無辺、苦海から退け――還れ!」
蓮の鋭い踏み込みと共に、帰真剣が青年の霊の胸を貫く。それは肉体を傷つける刃ではなく、現世への未練を断ち切る慈悲の刃。
青年の霊は一瞬だけ驚いたような顔をしたが、やがてその表情から苦痛が消え、憑き物が落ちたような穏やかな顔へと変わった。
『……ありがとう』
かすかな声が聞こえた気がした直後、霊は淡い光の粒子となって、淡水河に吹く夕凪の風に溶けていった。倉庫を満たしていた冷気も、嘘のように消え去っていた。
5.エピローグ:次の一歩
任務を終えた二人は、淡水老街の屋台に並んで座っていた。
目の前には、名物の「阿給(アゲイ・厚揚げの春雨詰め)」と、冷たい酸梅湯が置かれている。
「お疲れ様でした、先輩。見事な送魂でしたね」
「後輩さんの結界術と見鬼の精度が上がっているおかげさ。……それにしても、ここの阿給はいつ食っても美味いな」
蓮が熱々の阿給を頬張りながら笑う。
海を越えて逃亡した枢栄会の影。彼らがいつか、より強大な悪意となって再び二人の前に現れる日が来るのかもしれない。
だが、美しい夕焼けに染まる淡水の景色を見つめながら、美鈴の心に迷いはなかった。
「先輩。明日も、明後日も、依頼は山積みですよ」
「ああ、わかってる。しっかり稼いで、シャドウの餌代も稼がないとな」
足元でシャドウが「わん!」と元気よく応える。
世界のどこかで悪意が蠢いていようとも、双霊相談事務所の二人は、今日も変わらず台北の街の哀しみを祓い続けるのでした。




