第三十六話:「囮と影、狂気の実験室へ」
台湾祓清愛哀歌:第三十六話「囮と影、狂気の実験室へ」
1.囮の覚悟
深夜の双霊相談事務所。李美鈴はiMacの前に座り、深く息を吐いた。画面には、行方不明になった若者たちが最後にアクセスしていた「呪詛のファイル」のダウンロードリンクが表示されている。
「先輩、シャドウ。準備はいいですか?」
「ああ。いつでも出られるように、カローラ(営業車)のエンジンはかけてある。……本当にやるんだな?」
佐藤蓮は帰真剣を背に負い、心配そうに美鈴を見つめた。
「ええ。相手の呪詛を逆に辿るには、一度あえて術に『喰われる』必要があります。私の意識が混濁しても、シャドウが私と繋がっている限り、絶対に追跡できますから」
美鈴は迷いなくマウスをクリックした。
その瞬間、画面から黒い泥のようなノイズが溢れ出し、美鈴の瞳に吸い込まれた。
「っ……!」
美鈴の体がビクンと跳ね、その瞳から光が失われる。幽霊による物理的な催眠効果を応用した、強烈な誘拐用の呪詛だ。操り人形のように立ち上がった美鈴は、焦点の合わない目で事務所のドアを開け、夜の街へと歩き出した。
「行くぞ、シャドウ。後輩さんを必ず連れ戻す」
蓮の言葉に、黒犬の式神が鋭く吠え、夜の闇へと溶け込んで美鈴の後を追った。
2.追跡の夜
美鈴は無意識のまま西門町の路地裏へと歩みを進め、そこに停車していた窓がスモークで覆われた黒いバンに乗り込んだ。バンはすぐさま発進し、台北の市街地を抜けて郊外へと向かう。
そのバンから一定の距離を保ち、蓮は黒のトヨタ・カローラ・アルティスを走らせていた。
霊感がない蓮には呪詛の気配は追えないが、助手席に座るシャドウが、美鈴との間に結ばれた見えない『霊的な糸』を嗅ぎ取ってナビゲートしているのだ。
「……向かっているのは、北部の山間部か。旧日本軍の実験場があったとされる台湾中心部ではないが、人目を避けるには絶好の場所だな」
やがてバンは、日本統治時代に建てられ、今は廃墟となっている古い工場跡地へと入っていった。蓮は少し離れた木立の中に車を隠し、気配を殺して工場へと接近する。
3.狂気の実験室
工場の中は、異常な光景が広がっていた。
最新のサーバー群と、古びた旧日本帝国陸軍のオカルト研究資料が乱雑に混在し、部屋の隅には行方不明になっていた若者たちが、呪詛によって眠らされ転がされている。
「素晴らしい……! なんて強靭な霊感だ! 過去最高の『検体』じゃないか!」
美鈴を見下ろし、狂喜の声を上げているのは張志豪だった。彼は旧日本軍の軍服のレプリカを羽織り、興奮で顔を歪ませている。
「この女の『見鬼の瞳』を呪詛で増幅してレーダーにすれば、所在不明の『霊界への門』の座標が必ず特定できる! 我が使命が、ついに果たされるのだ!」
「はいはい、良かったわね志豪。門だか何だか知らないけど、これだけ霊感の強い女なら、裏のオークションで呪詛の依り代として売れば相当な金になるわよ」
姉の張麗華が、電卓を叩きながら冷たく笑う。
「姉さん、金など俗物な考えはよせ! これは偉大なる帝国陸軍の意思を継ぐ聖戦――」
志豪が美鈴の額に呪詛の札を貼り付けようと手を伸ばした、その時だった。
「……誰が検体だって?」
虚ろだったはずの美鈴の瞳に、強い光が戻った。
「なっ……呪詛による催眠が解けただと!?」
「残念だったわね。私のケルト系魔術は、精神防壁にも応用が効くの。あなたの呪詛、ダウンロードしたフリをして、一番外側の結界で止めておいたわ」
美鈴が指を鳴らすと、隠し持っていた護符が光を放ち、志豪の呪詛の札を弾き飛ばした。
4.エピローグ:反撃の剣閃
「小娘が! 舐めるな、お前の脳を直接呪詛で焼き切って――」
激昂した志豪が印を結ぼうとした瞬間。
ガラガラガラ!!
分厚い工場の鉄扉が、大きな音を立てながら行き良いよく開いた。
逆光の中から、帰真剣を正眼に構えた蓮と、シャドウが静かに姿を現す。
「……待たせたな、後輩さん」
「遅いですよ、先輩。でも、見事なタイミングです」
蓮は工場内を一瞥し、倒れている若者たちと、張姉弟を冷たい瞳で射抜いた。
「祓清技能士、佐藤蓮。……お前たちが『枢栄会』だな。呪詛による民間人への危害、及び誘拐の現行犯だ。これより、物理的かつ霊的な『排除』を行う」
「ふざけるな! ただの民間業者が、天才である私に勝てると思うな!」
志豪の周囲に、どす黒い呪詛の嵐が渦巻き始める。姉の麗華も舌打ちをし、スタンガンを取り出して身構えた。
狂気の呪詛の天才と、東洋と西洋の術を操るバディ。
廃工場を舞台にした、双霊相談事務所と枢栄会の直接対決の幕が、今まさに切って落とされた。




