第三十二話「シャドウの休日、事務所は守り抜く」
台湾祓清愛哀歌:第三十二話「シャドウの休日、事務所は守り抜く」
1.留守番は任された
「シャドウ、ごめんね。シンガポールの霊障は複雑であなたの『本体』の力が必要だから、一緒に連れて行くわ。でも、私たちがいない間、ここが空っぽになるのは不安なの……あなたの『残影』に、お留守番をお願いしてもいい?」
蓮と美鈴が大きなスーツケースを持って事務所を去った後、オフィスには深い静寂が訪れました。
美鈴のケルト魔術によって事務所の結界として切り離され、その場に残されたシャドウの「残影」――いつもより少しだけ輪郭の淡い、黒いラブラドールレトリバーの姿をした式神は、玄関のドアが閉まるのを見届けると、重いため息をついてソファの特等席に丸まりました。
「わん……」
いつもなら美鈴がiMacでカチカチと音を立て、蓮が八極拳で床を鳴らす。そんな賑やかな日常が、今日はひどく遠く感じます。
しかし、そんな平穏を破るかのように、事務所のドアの隙間から、どす黒い「煤」のようなものがじりじりと侵入してきました。
2.忍び寄る影
それは「忘れ去られた霊」の集まりでした。いつもなら美鈴の霊感とシャドウの本体による探知で即座に追い払われるはずですが、主の気配が薄れた今の事務所は、霊たちにとって絶好の隠れ家に見えたようです。
ソファの上の残影のシャドウは、ぴくりと耳を動かしました。
(……僕の大切な場所だ。汚させない)
シャドウは影から立ち上がりました。本体の大部分がシンガポールへ向かっているため、今の彼には普段ほどの力はありません。しかし、彼は事務所の結界の要を維持している「守護神」の役割も持っていたのです。
残影のシャドウが低く吠えると、淡かった黒い犬の姿が少しだけ実体を伴い、瞳が鋭い金色に輝きました。
3.事務所の防衛戦
煤のような霊たちは、事務所内のiMacや本棚の符にまとわりつこうとします。
シャドウは稲妻のような速さで跳躍し、霊たちの通り道に影の壁を築きました。彼は噛み付くのではなく、鋭い爪で霊の「形」を切り裂き、事務所から追い出していきます。
「わんっ!(ここは僕の家だ! 出て行け!)」
シャドウは事務所の配置を熟知しています。蓮が鍛錬に使っていた道教符術の残り香や、美鈴が魔術の練習で描き残したケルトの護符の痕跡を巧みに利用し、本来の霊能者顔負けの防衛線を展開しました。
最後の一体が窓から逃げ出すのを見届けると、シャドウは荒い息を吐きながら、事務所の入り口にどっかと座り込み、番犬のように見張りを続けました。
4.エピローグ:おかえりの準備
数日後。
蓮と美鈴が事務所のドアを開けた時、そこにはいつもと変わらない、少しだけ埃っぽいけれど温かい日常の空気が流れていました。
「ただいまー! シンガポール、暑かったですけど楽しかったですよ!」
「ああ、ただいま。事務所は異常なし、だな」
ドアが開くと同時に、美鈴の足元に付き従っていた「本体」のシャドウが駆け出し、ソファから飛び降りてきた「残影」とふわりと溶け合って、一つの濃い影に戻りました。
美鈴が部屋に入ると、なぜかソファの上に、行方不明になっていた蓮の古い靴下がきれいに畳まれて置かれていました。また、デスクの上には、美鈴が探していた大事なUSBメモリが、一番目立つ場所にチョコンと置いてあります。
「あれ? 私、これ片付けた覚えがないんですけど……」
美鈴が不思議がっていると、足元から「わん!」と元気な声がしました。
一つに戻ったシャドウは尻尾を激しく振り、二人の足元に擦り寄ってきます。その毛並みは、どこか誇らしげに輝いていました。
「……もしかして、お前の『残影』が、しっかり留守番して色々と守ってくれてたのか?」
蓮がシャドウの頭を撫でると、シャドウは満足そうに目を細めました。
「ええ、きっとそうね。……ありがとう、シャドウ。今日のおやつは、シンガポールで買ってきた特製クッキーね!」
外はまたいつもの台北の活気が戻ってきています。けれど、この小さな事務所だけは、二人の帰りを待ち続けた忠実な守護神のおかげで、今日もまた静かで平和な夜を迎えるのでした。




