第三十話「マーライオンの吐息、熱帯の迷い影」
台湾祓清愛哀歌:第三十話「マーライオンの吐息、熱帯の迷い影」
1.招待状は国境を越えて
台北市大同区、双霊相談事務所。けたたましく回転するエアコンの音に混じって、愛用のiMacのキーボードを叩く李美鈴の指先がピタリと止まった。
「先輩、ちょっとこれ見てください」
広東語訛りの台湾華語で呼ばれ、日課の八極拳の套路を終えて汗を拭いていた佐藤蓮が顔を覗き込む。画面に表示されていたのは、シンガポール政府の祓清専門機関の責任者、リン・チェン氏からの公式な合同調査依頼のメールだった。
「シンガポール政府から……? なぜ、わざわざ台湾の一民間業者である俺たちに」
「向こうの金融街にある歴史的建造物周辺で、大規模な霊障が起きているみたいです。複雑な環境下で『対象の捕捉・結界による封じ込め』と『送魂』を同時に、かつ迅速に行える専門家を探していると。……台湾の国家公認技能士のネットワーク経由で、私たちの実績に白羽の矢が立ったみたいですね」
美鈴は誇らしげに胸を張ったが、蓮は少し顔を引きつらせた。
「後輩さん、パスポートの期限は大丈夫か?」
「もちろん! ……でも、先輩。台湾の外での祓清なんて初めてですよ。少し緊張します……」
「大丈夫だ」
蓮は壁に立てかけられた『帰真剣』を一瞥した。
「場所が変わっても、迷える魂を死後の世界へ導くという俺たちの仕事に変わりはない」
数日後。二人は真夏の熱気が肌にまとわりつくシンガポール、チャンギ国際空港に降り立っていた。
2.高層ビル群に潜む影
依頼の現場は、ラッフルズ・プレイス。植民地時代の面影を残す豪奢な古いホテルと、空を突くような最新の総ガラス張りのオフィスビルが隣り合う、新旧が入り混じる金融街だった。
「……先輩。シンガポールの霊障、台北のそれとは全然質感が違います」
強い霊感を持つ美鈴が、不快そうに眉をひそめた。台北の幽霊たちが持つ、路地裏の土着的な湿り気とは違う。ここにあるのは、金属的な硬質感と、都市の眩しすぎる光による狂気だった。
「この新しいビル群、建設の際にいくつもの古い墓地を掘り返してしまったそうです。おまけに……」
「おまけに?」
「全面ガラス張りのせいで、太陽光や夜の人工光が乱反射しすぎています。幽霊たちが物理的な光の迷路に閉じ込められて、座標を失いパニックを起こしているんです」
霊感がほとんどない蓮には、ただ眩しい近代的なビル群にしか見えない。だが、美鈴の目には、ガラスの反射の中で無数に引き裂かれ、迷い続けている無数の霊の姿がはっきりと視認できていた。美鈴の足元で、分霊である黒いラブラドールレトリバーの『シャドウ』が、虚像に向かって低い唸り声を上げる。
「俺の目じゃ、どこに本質がいるのか全く分からないな。……美鈴、いつものように俺が『夜』を作る。道筋はお前が示してくれ」
3.光と影の調律
蓮はゆっくりと息を吐き、帰真剣を抜いた。八極拳の歩法を応用した力強い足取りで、ビルの周囲の要所を巡り、道教系の符を打ち込んでいく。
「道法無辺、大地に闇を――」
蓮の放った結界術が展開され、一帯の強すぎる人工光が一時的に不可視のベールに包まれた。広場に、擬似的な「夜」の静寂と暗闇が訪れる。反射という迷路を奪われ、行き場を失った無数の霊たちが、霧のように一箇所へと集まり始めた。
「――今だ、後輩さん! 座標が定まった!」
美鈴はシャドウを巨大化させ、ケルト系魔術の力で霊たちの周囲を囲い込み、その場に強固に縛り付ける。彼女の魔術が描き出す光と影の境界線が、霊たちを現世に繋ぎ止めるアンカーを断ち切っていく。
「還りなさい。ここはもう、あなたたちが迷うべき場所じゃないわ」
美鈴の言葉を合図に、蓮が踏み込んだ。
幽霊の発見は苦手だが、こと『送魂』において蓮の右に出る者は少ない。帰真剣の切っ先が空を裂き、送魂の真言がシンガポールの熱帯の夜風に響き渡る。
現世から完全に切り離された無数の影たちは、まるでホタルの光が天へと昇るように、静かに、そして安らかに死後の世界へと消えていった。
4.エピローグ:赤道直下の熱い夜
翌朝。無事に任務を終えた二人は、マリーナ・ベイ・サンズを遠くに望むホーカーズ(屋台街)のプラスチック製のテーブルに向かい合って座っていた。
周囲はシンガポール特有の湿気と、様々な香辛料の匂い、そして人々の活気あるざわめきに包まれている。テーブルの上には名物の**「海南鶏飯」と、蓮のためのよく冷えた「タイガービール」**、そして美鈴のトロピカルジュースが並んでいた。
「……初めての海外祓清、大成功ですね、先輩!」
美鈴は満足そうに鶏肉を頬張ると、鞄からデジタルカメラを取り出し、手際よくテーブルの上の料理を撮影し始めた。帰国したら、事務所のホームページのブログにアップするつもりに違いない。
「ああ。シンガポールの技術者たちも、東洋の道教術式と西洋のケルト魔術の混合には驚いていたよ」
蓮はビールで喉を潤し、チリソースの辛さに少し顔を赤らめながら息をついた。
「だが……やはり、台北の夜市の喧騒の方が、俺の肌には合ってるな」
「ふふっ。先輩、すっかり台湾に馴染んでますね」
美鈴は笑いながら、カメラのレンズを蓮に向けた。
「今回のブログのタイトルは『マーライオンが見た夜の迷子』にします。……あ、熱帯夜とチリソースの辛さで、先輩が顔を真っ赤にしているこの写真、絶対に載せますからね」
「おい、冗談だろ。依頼人が見たら威厳がなくなる、消してくれ!」
慌てて手を伸ばす蓮をひらりと躱し、美鈴は楽しげに笑い声を上げた。
東南アジアの熱い風の中に、二人の賑やかなやり取りが溶けていく。小さな相談事務所のコンビは、台湾を飛び出し、国境を超えてもなお、誰かの哀しみを祓い、そして変わらない日常を歩み続けていた。




