第二十六話「路地裏の秒針、カローラの休日」
台湾祓清愛哀歌:第二十六話「路地裏の秒針、カローラの休日」
1.不機嫌な相棒
「……おかしいな。今朝からアイドリングが不安定だ」
台北の朝の喧騒の中、蓮はトヨタ・カローラ・アルティスのハンドルを握りながら眉をひそめました。
「先輩、まさか壊れたんですか? 今日はこれから林さんに報告書を届けに行かなきゃいけないのに」
助手席で美鈴が、不機嫌そうにエンジンルームから響く「カラカラ」という異音を聞いています。
「いや、大きな故障じゃないはずだ。だが、このままじゃ現場には行けない。万華にある馴染みの工場へ持っていくよ」
蓮は慎重に車を走らせ、下町の古い修理工場へと滑り込ませました。
「ああ、蓮さん。こりゃベルトの緩みだね。部品を取り寄せて調整するから、二時間ほど待ってもらうよ」
なじみの店主が油まみれの手で笑いました。
2.万華の迷宮
「……というわけで、二時間の足止めだ。後輩さん、君は近くのカフェで仕事でもしててくれ。俺は少し、周りを散策してくる」
「了解です、先輩。私はiMac……はさすがに重いので、このノートパソコンでブログの下書きをしてますね。あ、帰りに『龍山寺』の近くで美味しい胡椒餅を買ってきてください!」
美鈴と別れ、蓮は一人、万華の古い路地裏へと足を踏み入れました。
そこは、近代的なビルが建ち並ぶ台北とは別の時間が流れているような場所でした。レンガ造りの建物、絡まり合った電線、そしてどこからか漂ってくる線香の香り。
ふと、行き止まりの路地の隅で、小さな古道具屋の店先に座り、古い振り子時計をいじっている老人が目に入りました。
老人は、蓮が通りかかると、顔を上げずに日本語で話しかけてきました。
「……お若いさん、日本の人かね」
3.止まったままの時計
蓮は驚いて立ち止まりました。老人は穏やかな笑みを浮かべ、動かなくなった時計の歯車を細いピンセットで突いています。
「ええ、そうです。古い時計ですか?」
「これはね、かつてここにいた日本人の技師が置いていったものさ。もう六十年も動いていない。だがね、想いというものは、歯車が止まっても消えないものだよ」
蓮には霊感がほとんどありません。しかし、老人の周りの空気が、まるで洗いたてのシーツのように澄み切っていることだけは分かりました。
「修理……できるんですか?」
「形を直すのは簡単だ。だが、この時計が『刻みたがっている時間』を取り戻すには、少しだけコツがいる」
老人は、蓮の腰に差された竹刀袋(帰真剣)をちらりと見て、目を細めました。
「あんた、いい『杖』を持っているね。それは、死者を打つためのものではなく、迷子を家へ導くためのものだ。忘れないことだよ」
その瞬間、遠くで工場のチャイムが鳴りました。蓮がふと視線を外した隙に、老人の姿も、古道具屋の店先も、まるで陽炎のように霞んで見えました。
4.エピローグ:日常への帰還
「先輩! 遅いですよ! 胡椒餅、冷めちゃったじゃないですか」
修理の終わったカローラの運転席に乗り込むと、美鈴が膨れ面で待っていました。
「悪い、少し考え事をしていてな。……なあ、美鈴。この近くに、古い時計を直す名人がいるって話、聞いたことあるか?」
美鈴は不思議そうに小首を傾げ、ノートパソコンの画面を叩きました。
「万華の時計職人? ……あ、これかな。数十年前に亡くなった伝説の職人の記事がありますけど……まさか、その人に会ったんですか?」
蓮は何も答えず、快調な音を立て始めたエンジンの感触を確かめるようにアクセルを踏みました。
「……さあな。ただ、俺たちの仕事が、少しだけ誇らしく思えただけだ」
黒のカローラ・アルティスは、再び台北の喧騒の中へと走り出しました。
路地裏で聞いた、規則正しい時計の刻む音が、蓮の耳の奥に心地よく残っていました。
第26話、完。




