第十三話「午後の雨、記憶の洗濯物」
台湾祓清愛哀歌:第十三話「午後の雨、記憶の洗濯物」
1.雨の日の事務所
2000年代初頭、台北の午後は予告もなく激しいスコールに見舞われます。
「双霊相談事務所」の窓を叩く激しい雨音。湿り気を帯びた風が、レンガ造りの建物の隙間から入り込み、線香の香りと混じり合っていました。
「……ふぅ。この湿気、服が乾かないのは困りものだな」
佐藤蓮は、事務所の隅に即席で張られた物干しロープを見上げて溜息をつきました。
「先輩、そのTシャツ、場所取りすぎです。私のブラウスを干すスペースがありません」
iMac G4(通称:扇風機型Mac)の丸いモニターに向かっていた李美鈴が、不機嫌そうに振り返りました。彼女はMDプレーヤーのイヤホンを片耳にかけ、当時流行り始めていたジェイ・チョウ(周杰倫)の曲を口ずさんでいます。
「仕方ないだろ、これでも絞ったんだ。……それより後輩さん、さっきからシャドウが変だぞ」
見ると、黒いラブラドールレトリバーの姿をした分霊、シャドウが、誰もいないキッチンの入り口に向かって首を傾げ、尻尾をゆっくりと振っていました。
2.小さな「迷子」
「……あ、本当だ。誰か来てる」
美鈴が霊感を研ぎ澄ますと、そこには半透明の、小さな男の子が立っていました。
その子は、蓮が昨日洗って干しておいた古い道着(として使っているジャージ)の裾を、興味津々に掴もうとしています。
「先輩、視えませんけど、そこに五歳くらいの男の子がいます。どうやら、雨宿りに来たみたい」
「幽霊か? だが、これまでの連中とは気配が違うな」
蓮は帰真剣に手をかけず、穏やかな口調で尋ねました。
「ええ。悪意はゼロです。たぶん、近所の子じゃないかな。……あ、先輩の道着に泥の手形をつけようとしてますよ」
「おいおい、それは勘弁してくれ。昨日せっかく洗ったんだ」
蓮は戸棚から、林さんから差し入れでもらったクッキーの缶を取り出しました。
「霊感はないが……てんぷら(台湾風おでん)の匂いなら分かる。後輩さん、彼にこれを。腹が減ってちゃ、お母さんのところへも帰れないだろう」
美鈴がクッキーを一枚手に取り、空中に捧げるように掲げると、男の子は嬉しそうに笑い、美鈴の手から「クッキーの温もり(生気)」だけを吸い取りました。
3.日常のなかの送魂
雨が小降りになり、窓の外に薄っすらと虹が架かり始めた頃。
「……お兄ちゃん、お姉ちゃん、ありがとう」
美鈴にしか聞こえない小さな声でそう言うと、男の子の姿は夕陽に溶けるように薄くなっていきました。
「送魂……までもなく、満足して帰っていきましたね」
美鈴がふっと微笑むと、シャドウも満足そうに床に寝そべりました。
「特別な事件じゃなくても、こういう『迷子』はこの街に溢れている。俺たちの仕事は、なにも悪霊と戦うだけじゃないからな」
蓮は乾きかけの道着を取り込み、丁寧に畳み始めました。
「たまには、こういう静かな休日もいいですね。……あ、でも先輩。クッキー食べた分、夕飯は奢りですよ」
「はは、結局そうなるのか」
4.エピローグ:甜不辣の魔法
二人は雨上がりの大同区の路地へ繰り出しました。
アスファルトから立ち昇る雨上がりの匂い。立ち寄ったのは、老舗の「甜不辣」の屋台です。
魚のすり身で作った揚げ物や大根、血の餅(米血糕)が、甘辛い特製のタレに絡んでいます。
「ふーふー……やっぱり、雨上がりはこの温かさが染みますね」
美鈴が小さなプラスチックのフォークで、もちもちした練り物を口に運びます。
「最後の一口を食べたら、店員さんにスープを入れてもらうのを忘れるなよ」
「分かってますって! それが一番の楽しみなんですから」
食べ終わったカップに、おでんの出汁を注いでもらう。タレの残りと出汁が混ざり合ったその一杯は、冷えた心身を解きほぐす、魔法の飲み物でした。
「さて……明日からはまた枢栄会の尻尾を追いかける日々だな」
「そうですね。でも、今はスープをお代わりしたい気分です」
台北の夜。街灯が一つ、また一つと灯り、二人のバディの影が石畳の上に長く伸びていきました。




