第一〇三話「淡水(ダンシュイ)の夕日と忘れられた港」
第一〇三話「淡水の夕日と忘れられた港」
台北市大同区にある双霊相談事務所の土間には、オーストラリア名物のチョコレート菓子であるティムタムやマカダミアナッツ、シアトルの深煎りコーヒー豆、そしてスコットランドの最高級紅茶が山のように積まれていた。
「いやぁ、無事に帰ってきてくれて本当に良かったわ! しかもこんなにたくさんのお土産まで!」
市役所の林担当員が嬉しそうに声を上げると、陳巡査部長、探偵の呉さん、フリー記者の黄さんもそれぞれ海外の珍しい土産を手に、ワイワイと賑やかな笑い声を響かせている。 台湾全土を巻き込む悲劇を未然に防いだ総統府地下での激闘から数週間。海を越えて恩師たちとの絆を確かめ合い、無事に帰国を果たした佐藤蓮と李美鈴の元には、いつもと変わらない心強い仲間たちの顔が揃っていた。
「みんな、留守の間は色々とフォローしてくれてありがとう。今日からまた、通常営業を再開するよ」
蓮が静かに微笑むと、林さんがパチンと指を鳴らして一枚の書類をデスクに置いた。
「というわけで、復帰第一号の依頼よ。場所は台北の北、夕日で有名な港町・淡水。古いフェリー乗り場で、夕暮れ時になると若い船乗りの幽霊が現れて、周囲の観光客に原因不明の涙と喪失感を振り撒いているらしいの」
数時間後。 黒のトヨタ・カローラ・アルティスで淡水に到着した二人を待っていたのは、淡水河の河口に広がる、息を呑むほど美しい黄金色の夕焼けだった。 二〇〇〇年代初頭の淡水は、台北から地下鉄(MRT)で気軽に行ける観光地として人気を集める一方で、路地裏や古い港湾施設には、かつての貿易港としてのノスタルジックな面影が色濃く残されている。
「うわぁ……何度見ても綺麗な夕日ですね、先輩。川面がキラキラ光ってます」
美鈴が潮風に髪を揺らしながら感嘆の声を上げる。しかし、その足元では分霊の黒犬・シャドウが、美しい景色とは裏腹に、川沿いの古びた桟橋に向かって低く唸り声を上げていた。
「どうやら、あの夕日を純粋に楽しめない魂が迷い込んでいるようだな」
蓮は背中に帰真剣の重みを感じながら、観光客の姿が途絶えた古い桟橋へと足を踏み入れた。生温かい潮風の中に、氷のように冷たい「陰の気」が混じっている。
「視えました。……古い時代の、麻のセーラー服を着た若い男性の霊です」
美鈴の瞳が、黄金色の夕日に背を向けて海を見つめる孤独な影を捉えた。
「彼は、沖に向かってずっと手を振っています。……乗っていた船が嵐に遭って沈んでしまい、自分だけが助かった。でも、一緒に乗っていた大切な仲間たちは帰ってこなかった。彼は自分が生き残った罪悪感に苛まれながら、帰るはずのない船を何十年もこの港で待ち続けているんです」
青年の霊から溢れ出す「後悔」と「悲哀」が、どす黒い霧となって周囲の空気を侵食し始める。周囲の気温が急激に下がり、水面が不自然に波立ち始めた。
「これ以上、悲しみを海に溶かさせるわけにはいかないな。ここで空間を縛る!」
蓮は鞄から黄色い護符を取り出し、鋭い呼気と共に四方へ打ち放った。
「道法無辺、急々如律令!」
バチィッ! と空気が弾け、空間に静止した符が強固な結界を展開する。霊障の冷気は結界の壁に阻まれ、観光地へと漏れ出すのを完全に塞がれた。
結界の中で、届かない海へ向かって泣き崩れる水夫の青年に、美鈴がゆっくりと歩み寄る。 彼女の指先から、スコットランドの恩師から受け継ぎ、さらに深みを増したケルト魔術の緑色の光が溢れ出した。温かく柔らかな光が、夕日の黄金色と混じり合いながら青年を包み込む。
「もう、冷たい波の音に怯えなくていいんですよ」
美鈴は台湾華語で、青年の凍りついた心を溶かすように優しく語りかけた。
「あなたが生き残ったことを、海の底の仲間たちは誰も恨んでなんかいません。むしろ、あなたが自分たちの分まで生きて、この美しい夕日を見てくれたことを喜んでいます。……だから、自分を許してあげて」
緑色の光の粒子に触れ、青年の霊がハッとして振り返る。その視線の先には、仲間たちの幻影が「気にするな」と笑って手を振っているように見えたのかもしれない。 青年の頬を伝っていた後悔の涙が止まり、彼は深く、安堵の息を吐いて深く頷いた。
「よくやった、後輩さん。……波の音より静かな場所へ、俺が送ろう」 未練の糸が完全に解けたのを感じ取った蓮は、背中の帰真剣を静かに引き抜いた。
「帰真――本来の姿へ還れ」
清浄な波紋が剣先から放たれ、霊を優しく包み込む。青年は最後に夕日に向かって綺麗な敬礼をすると、光の粒子となり、淡水の海風に乗って静かに天へと昇っていった。
「祓清完了だ」 蓮が剣を鞘に収めると、桟橋には本来の穏やかな波の音と、美しい夕暮れの静寂が戻っていた。
「ふぅ……。悲しい記憶でしたけど、夕日と一緒に綺麗に溶けていきましたね」
美鈴が大きく伸びをして、シャドウの頭を撫でる。
「ああ。世界中どこに行っても、こういう哀しみがある限り、俺たちの仕事は終わらないさ。……さて、仕事の後は?」
蓮の言葉に、美鈴は待ってましたとばかりに目を輝かせた。
「淡水に来たら『阿給』を食べなきゃ帰れませんよ! 油揚げの中に春雨がたっぷり詰まっていて、甘辛い特製ソースがかかってるやつ! それに熱々の『魚丸湯(魚団子スープ)』も!」
「わかった、わかった。ちゃんと奢ってやる。シャドウには味付け無しの魚団子のおすそ分けだな」
「ワフッ!」
黄金色に輝く淡水河の水面を横目に、二人は賑やかな屋台街へと歩き出す。 海外での非日常を経て、再び台湾の夕暮れに溶け込んでいく「双霊」のバディ。視えない哀しみに寄り添う彼らの、温かくも騒がしい日常が、ここからまた始まっていく。




