14.棄てられた遺物
一刻の猶予もない。
古川の言葉を聞いた時点で、判断は終わっていた。
続いて、深見から低い声で通信が入る。
『あと数分で初動隊員が到着する。相澤君はこのまま移動を開始してくれ』
それを受け、俺はTARAK-Xの死体から視線を外し、トリックスターへ意識を向ける。
「トリックスター。先ほどの座標へと向かう」
〔ハーイ!〕
返事は軽い。
死体の前に立っているという状況も、次の戦場へ向かうという重さも、トリックスターの声には乗らない。
それが今は、かえって都合がよかった。
感情の重さは邪魔になる。
殺すためには、軽い方がいい。
足元の瓦礫が遠ざかる。
黒い死体が視界の端へ流れ、死んだ街の匂いが薄くなる。
焦げた樹脂と湿った土の気配が消え、代わりにトリックスターの内側へ、移動前の静かな圧力が満ちていく。
世界がまた、速さの中へ引き延ばされる。
その直前、通信が繋がった。
『ナギ……?』
亜美の声だった。
映像も開く。
画面の向こうに映った亜美は、先ほどの礼服のままだった。
淡い紺色の布は乱れ、肩のあたりに薄い埃が付いている。
髪はハーフアップの形をかろうじて残していたが、細い後れ毛が頬に張りついていた。
頬には、泥のような汚れが一筋ついている。
晩餐会の会場から避難誘導か、負傷者対応か、資料搬送か。
何をしていたのかは分からない。
ただ、亜美も安全な場所で待っていたわけではないらしい。
『どうして、私が……?』
問いは当然だった。
今この場で、ただの研究補助員を呼ぶ理由は普通ならない。
戦場にいるのは俺で、機体を動かすのはトリックスターだ。
VELUCTには深見も古川もいる。技術員も揃っている。
それでも、呼ぶ必要があった。
「逆信号照射装置、Phractureだ」
亜美の表情が変わった。
困惑が一瞬で引き、代わりに思考の色が浮かぶ。
研究室で何度も見た顔だった。
怖がりながらも、理解しようとする時の顔。
無理だと思っても、それでも目の前の構造を追おうとする顔。
『Phracture……?』
古川の声が割って入る。
『ナギ君。トリックスターがいるのに、今さら失敗作を引っ張り出してどうするんだい?』
失敗作。
その言い方に、亜美の肩が小さく揺れた。
だが、彼女は黙らなかった。
『待ってください』
亜美の声が、少しだけ強くなる。
『Phractureをトリックスターに搭載して、補正してもらう。完全に沈黙させる……ってこと?』
「あぁ」
返答に迷いはなかった。
「多分、Phractureの論理は的外れではなかった。足りなかったのは、照射精度か、干渉式の補正か、あるいはTARAK-X側の構造理解だ」
視界の端で、トリックスターの移動予測が流れる。
距離が削れていく。
山。夜。海に近い湿った空気。
地形が線になり、全方位視界の中で滑っていく。
「そこにトリックスターの知識を使えば、無傷のサンプルが手に入る可能性がある」
回線の向こうが、一瞬だけ静かになった。
古川も。
深見も。
亜美も。
全員が、その意味を理解したのだろう。
壊さずに殺す。
殺して、残す。
残して、調べる。
それができるなら、次からの殺し方が変わる。
「自国で試してもいい。ただ、自国では殲滅が最優先ですよね」
俺は言葉を続ける。
「今の東縁列島、内陸圏で求められているのは時間稼ぎです。一か八かを試すには、絶好の機会では?」
『絶好、か』
古川の声は低かった。
怒っているわけではない。
笑っているわけでもない。
政治と軍事と研究と倫理を、同じ皿の上で計量している声だった。
トリックスターの声が、そこへ軽く割り込む。
〔アト ニフン デ ツクヨー!〕
速い。
分かっていたが、それでも異常だった。
「Phractureのデータをください。現場での調整は、俺と五十嵐が担当します」
『ナギ君』
古川が俺の名前を呼ぶ。
その短い声だけで、考えを巡らせているのが分かった。
通信の奥で、アラートが鳴り続けている。
誰かが被害状況を読み上げる。
別の誰かが座標を復唱する。
遠くの戦場で、今も量産機がTARAK-Xを止めようとしている。
時間はない。
〔モウ ツクヨー!〕
トリックスターが、楽しそうに告げる。
「判断を」
俺は短く言った。
古川の息が、回線の向こうで止まる。
それから、ひどく重い声が返ってきた。
『分かった。全てのデータを今から渡す』
そこで一拍置く。
『だが、分かっているな』
「えぇ」
分かっている。
トリックスターに情報を渡す。
正体不明の機体に、こちらの研究成果を読ませる。
何を理解し、何を持ち去り、何に変換するのかは分からない。
危険だ。
正気ではない。
だが、それは今さらだった。
「トリックスターに情報を渡すリスクは百も承知です。でも、俺は殺すための手段を択ばない」
亜美が息を呑む音が聞こえた。
小さな音だった。
それでも、妙に近く届いた。
亜美は多分、俺が何を言っているのか分かっている。
分かってしまった。
だから息を呑んだ。
俺はその音を、照準の外へ押し出す。
「トリックスター。この資料を読み込んで、より良い武器にしろ」
〔オー!〕
トリックスターの声が弾んだ。
次の瞬間、膨大な情報が流れ込む。
Phractureの基礎理論。
逆信号の波形、照射装置の仕様、干渉失敗時の記録、照準補正の限界値。
亜美たちが積み上げてきた失敗の層。
数字と図面と波形が、トリックスターの中へ吸い込まれていく。
人間が何日もかけて読む量だった。
人間が数ヶ月かけて作った傷だった。
それを、トリックスターは遊ぶように眺めていた。
〔……ウン! ジュンビ デキタヨ!〕
早すぎる。
技術員の誰かが、回線の向こうで息を呑んだ。
喉が鳴る、湿った小さな音が聞こえた。
その気持ちは分かる。
分かるが、止まらない。
同時に、視界へ戦場が飛び込んできた。
東縁列島、内陸圏。
夜の山間部に、破壊された施設の灯りが滲んでいる。
火災の赤。警告灯の橙。
量産機の外装を走る白い反射。
その全ての中で、TARAK-Xが立っていた。
黒い異物。
背後の円環。
青白い光。
それと向き合っている量産機は、明らかに限界だった。
脚部の動きが鈍い。
肩の装甲が抉れている。
銃を構える腕がわずかに下がる。
回避動作のたびに、姿勢の復帰が遅れている。
パイロットの疲弊が、そのまま機体の遅れとして出ていた。
『さっきと同じように、円環部を狙って』
亜美が言った。
声は震えていた。
だが、言葉は止まらない。
『トリックスターさんが可能なら、出力は抑えて様子見から始めた方が良いと思う。いきなり最大で当てると、Phracture側の干渉がどう出るか分からない』
『横から失礼』
深見の声が入る。
『五十嵐君に同意見だ。トリックスターの補助を手に入れたPhractureは未知数だ。出力次第では、対象が木っ端微塵になる可能性もある』
木っ端微塵。
それは困る。
今欲しいのは死体ではない。
もっと綺麗なものだ。
もっと内部が見えるものだ。
殺した後に、次の殺し方を教えてくれるものだ。
「トリックスター」
〔ナニ?〕
「お前が組み立てている計算式を、なるべくこちらの物理法則に落としてデータ化してくれ」
〔イイヨー!〕
気楽な声が響いた、その時だった。
ガゴン、と鈍い音が響いた。
量産機が、TARAK-Xの脚部で弾き飛ばされた。
地面を削りながら後退し、背中から斜面へ叩きつけられる。
土砂が跳ね、折れた木が宙へ舞う。
装甲の継ぎ目から白い火花が散った。
少女の悲鳴のような呼吸が、通信の奥で漏れる。
東縁列島の代理パイロットは、もう限界だった。
時間がない。
理論も、検証も、調整も、全部足りない。
だが、ここで待てば、あの量産機は潰される。
「時間がない。トリックスター」
〔ン?〕
「とりあえず壊すな。行くぞ」
〔イックヨー!〕
返事は明るい。
俺はその無邪気さを聞きながら、前へ出る。
Phractureの補正データが、視界の端でまだ形を変えている。
亜美の声が、回線の向こうで何かを言いかける。
深見が数値を読み上げる。
技術員が、トリックスターから返ってきたデータにまた息を呑む。
それら全てを聞きながら、俺の身体はもう新しい戦場へ踏み込んでいた。
夜の空気が裂ける。
土と金属の匂いが濃くなる。
倒れかけた量産機の向こうで、TARAK-Xの円環が青白く光っている。
殺す。
ただし、今度は壊しすぎないように。
トリックスターは虚空へ踏み出した。




