13.虚空の渇き
TARAK-Xは、一切の反応を見せなかった。
横たわったまま、動かない。
歪んだ円環も、折れたように沈んだ脚部も、こちらを見上げる顔のような部位も。
そして、円環から発していた、極寒そのものを物体化したかのような青白い光も……消えていた。
何も動かない。
夜の中に、巨大な黒だけが残っている。
粉塵はまだ薄く漂っていた。トリックスターが浮いている少し下の地面で、細かな瓦礫が乾いた音を立てる。
焦げた樹脂に、割れたコンクリート、湿った土、それと熱を持った金属。
それらの匂いが、トリックスターの感覚器を通して、俺の鼻の奥へ届いていた。
実際に嗅いでいるわけではない。
それでも、伝わってくる空気は本物だった。
「VELUCT」
通信を開く。
「対象に反応なし。これより判断権を返上します」
言葉は平らに出た。
殺した。
そう言えば、何かが決まってしまう気がした。
だから、俺は事実だけを告げる。
判断権を返上し、死の確定をVELUCTに渡す。
その形なら、まだ処理できた。
「殺した」と判断することは、今の俺にはできない。
『映像、確認している』
深見の声が返ってくる。
いつもより少し遅い。
言葉を選んでいるのか。
それとも、目の前の映像を処理しているのか。
『今まで回収された死体サンプルと同様の反応だ。生体反応、円環部反応、姿勢制御反応、全て停止している』
短い沈黙。
『死んでいる』
その言葉が、回線の奥から届いた。
――死んでいる。
TARAK-Xが。
ナミを奪ったものと同じ名前を持つ異物が。
俺の撃った光で円環を崩され、地上へ落ち、トリックスターに受け止められて。
死んでいる。
『ありがとう、ナギ君』
深見が言った。
俺は返事をしなかった。
感謝される理由は理解できる。
世界から脅威を一つ消し、こちらの被害もほぼ出さなかった。
礼を言われる結果ではある。
でも、俺は殺したかったから殺しただけだ。
殺すために見た。
殺すために考えた。
殺すために撃った。
結果として、世界が一体分だけ軽くなった。
それだけだ。
(ナミ)
左薬指を握る。
痛みが走る。
(見ていてくれたか)
返事はない。
ナミの声は、聞こえない。
聞こえないまま、死体だけが目の前にある。
黒い異物。
壊れた円環。
熱の抜けていく身体。
死体の前に立ち尽くしていると、ザッという通信特有の雑音が入る。
『……ナギ君』
そこへ、古川の声が割って入った。
深見よりも声が硬い。
さっきよりは安定しているが、完全には戻っていないように聞こえた。
『今送った、東縁列島、内陸圏の座標までのおおよその移動時間は?』
質問の意味は、すぐに分かった。
“次”だ。
俺はTARAK-Xの死体から視線を外さないまま、トリックスターへ意識を向ける。
さほど時間はかからないだろう。
この機体なら、距離という概念を人間の感覚ごと踏み潰す。
それでも、確認は必要だった。
「トリックスター。この座標への最短到達時間は?」
〔ジュップン クライ!〕
軽い声だった。
十数メートルの異物を撃ち落とし、五十トンの質量を膜で包み、死体の前に立っている。
その直後に、異常な距離を散歩でもするかのような声で答える。
相変わらず、無茶苦茶だ。
『聞こえた』
古川が言った。
トリックスターの声を拾っていたらしい。
回線の向こうでは、アラートの音が増え続けている。それでも、古川の声はすぐに続いた。
『東縁列島、内陸圏が現在かなり押されている』
その報告は、綺麗に整えられた用語だった。
実際には、違うのだろう。
防衛線が削られ、人が死に、トリックスターの量産機が何かしらの危機に陥っている可能性がある。
そういう意味なのだろう。
誰かが次の一秒を繋ぐために、全てを捧げているような、そんな戻れない場所まで踏み込んでいる気配を感じる。
『こちらとしては、借りを作りたい』
古川の声が、わずかに政治の色を帯びる。
『君とトリックスターを救援に向かわせられるか?』
「はい」
古川の言葉が終わるのと、ほとんど同時に俺は返事をしていた。
迷いはない。
借りを作るため。
VELUCT内での俺の価値を上げるため。
トリックスターと俺を、各国に対してより大きな交渉材料にするため。
模擬戦で、古川の意図に反した結果を出した俺を、古川がそう使おうとするのは正しいと思う。
俺がそう利用されるために動いた。
これは、望んだ結果だ。
価値が上がれば、発言権が増える。
発言権が増えれば、殺すための選択肢が増える。
だが、今回の最大の目的は別にある。
TARAK-Xの殲滅。
一体でも多く殺せるなら向かう。
一秒でも早く殺せるなら使う。
誰かの政治も、誰かの借りも、誰かの思惑も。
全部、俺の殺意の足場にすればいい。
『即答か』
「次がいるなら、向かいます」
自分の声は、まだ平らだった。
古川が短く息を吐いた。
『現状、東縁列島内陸圏に降下した機体は、カレン・リウの代打が交戦している』
カレン・リウ。
あの青い少女の姿が、一瞬だけ頭を掠めた。
礼儀正しく整えられた表情、妹を守るために言葉を選んだ声。
……その奥に隠していた、家の事情。
だが、今戦っているのはカレン本人ではない。
『代理パイロットは防戦を強いられているため、疲弊が激しい。だが、パイロットを交代している余裕がない』
回線の奥で、またアラートが鳴る。
人間側の音。
誰かが数値を読み上げ、誰かが被害を報告する。それに誰かが復唱する音。
遠い。
だが、さっきよりも近い。
次の戦場へ向かうということは、あの音の中へ入るということだ。
『カレン君は警告を受けて即時に国へ戻ったが、今回の交戦には間に合わない。
向こうからの意向としては、パイロット交代の時間を稼いでほしいとのこと。
……俺から“言えること”は以上だ。』
「了解」
短く返す。
俺はTARAK-Xさえ殺せればいい。
それだけなら、単純だった。
だが、先ほど殺したTARAK-X一体で分かったことが多々ある。
円環への攻撃は効く。
そこを壊せば姿勢制御が乱れる。
だが、円環だけでは即死しない。
高度次第では落下被害が出る。
トリックスターの膜なら、落下衝撃を抑えられる。
こちらの銃弾は偏差補正を必要としない。
撃った場所へ直接届く。
殺し方が、少しだけ見えた。
それに近づければ近づけるほど、俺は完璧になる。
必ず殺すことだけを求められる戦いなら、選択肢は狭い。
だが今回、求められているのは時間稼ぎだ。
なら、試せることがある。
新しいTARAK-Xが、次の殺しへの道を示すかもしれない。
俺は、横たわったTARAK-Xを見る。
歪んだ円環。折れた脚部。地面へ沈んだ胴体。
死んでいる。
だが、まだ研究として使える。
標本は、次の殺害手順になる。
……この死体でもサンプルとしての価値は最大級だろう。
でも、もっと綺麗な死体が良い。もっと、もっと、内部を知りたい。
もっともっともっと――殺したい。
「いつでも移動は可能です」
一度、頭を冷やすついでに報告を上げる。
胸の奥に、冷たいものが沈んでいく。
それは恐怖でも後悔でもなかった。
もっと単純で、もっと硬いもの。
次を殺すための形。
「ただし、ひとつ提案があります」
回線の向こうが静かになる。
古川も。
深見も。
おそらく、そこにいる研究員達も。
全員が、俺の次の言葉を待っていた。
俺は左薬指を握る。
痛い。
その痛みだけが、まだ俺を人間の形に留めている。
(ナミ)
返事はない。
それでも、俺は続ける。
「五十嵐亜美と、通信を繋げてください」




