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10.可能性の限界


 周囲の風景が、処理できない速度で過ぎ去っていく。

 基地の照明が後ろへ流れる。

 山の稜線が裂けるように遠ざかり、夜の黒に沈んだ地形が、一本の線になって視界の端へ消えていく。


 空気が鳴っている。

 いや、鳴っているはずだった。


 この速度で移動しているなら、風圧も、衝撃も、音も、身体を押し潰すほど発生していなければおかしい。

 なのに、俺は一切Gを感じていない。


 内臓が後ろへ引かれる感覚も、首に力を入れる必要も、眼球が揺れることもない。


 ただ、世界だけが勝手に流れていく。

 トリックスターの内側にいる俺は、移動しているのに、移動していない。

 神経だけを目的地へ滑らせているような感覚だった。


 宣言通り、ほぼ一分。

 視界の流れが急に緩み、夜の街の残骸が広がった。


 世田谷。


 かつてそう呼ばれていた場所。


 建物と呼べるものは、ほとんど崩れていた。

 折れた鉄骨。

 潰れた道路。

 焼け焦げた外壁。

 街灯だったものが斜めに傾き、電線が黒い蔦のように垂れている。


 どこかで、まだ残り火が燻っていた。

 煙の匂いがする。

 実際に嗅いでいるのか、トリックスターが拾った情報を匂いとして認識しているのかは不明だ。


 だが、鼻の奥には焦げた木材と、溶けた樹脂と、湿った灰の匂いが混ざって届いた。

 都市だったものが、息を止めている。


『最新予定降下時刻、二十時五十八分』


 古川から通信が入る。

 現在時刻は、二十時二十三分。

 時間には、まだ余裕がある。


 余裕があるということは、準備できるということだ。

 準備できるということは、殺す確率を上げられるということだ。


「トリックスター」


〔ナニ?〕


「TARAK-X(ターラクス)を確認できるスコープ付きの狙撃銃を出せ」


〔ウン!〕


 ふわり。


 右手に銃が握られていた。

 重さが発生した感覚はない。まるで最初からそこに存在していたと思わせる感覚だった。

 量産型のシミュレーターで味わった、武器出現時の重心変化が脳裏に残っている。


 大剣が現れる瞬間の引っ張られ方。

 銃を握る時の、姿勢の微調整。

 機体ごと重さに応答する必要があった感覚。


 それを知っているからこそ、今の違和感は大きい。


 トリックスターは、地球の法則で制御されているはずの手続きを省いている。

 物体が発生するなら、そこに質量があるはずだ。

 質量があるなら、移動にも保持にも負荷があるはずだ。


 この機体は、その当たり前を俺に感じさせない。

 だが、構っている余裕はない。


「TARAK-X(ターラクス)を確認します。現在座標の表示を要求」


 視界の一部に、座標情報が展開される。


 高度、落下予測線、目標地点。

 TARAK-X(ターラクス)の現在地が、冷たい数字として表示された。


 通常、隕石や人工物の落下は、地球の重力に引かれながら軌道を描く。

 円弧を作り、速度と重力と空気抵抗の中で落ちてくる。


 だが、表示された線は違った。

 ほとんど、真上。

 俺は、内心で息を呑む。


(真上か)


 TARAK-X(ターラクス)は、目標地点へ向けて最短で降りてきている。


 これはまさに落下ではなく降下だ。

 地球の重力に引かれているのではなく、自分でその地点を選んでいる。


 スコープを覗き込む。


 視界が一気に狭まった。

 黒の中に穿たれた異物。


 こちらへ向けられた足元だけで、視界がほぼ埋まる。

 背後の円環は見えない。


 この位置からでは、初撃として成立しない。


「降下体勢から、円環の狙撃は困難と判断。横浜への移動を提案」


 トリックスターなら、世田谷と横浜の移動など数秒で済む。


『許可』


 古川の返答は早かった。


「トリックスター、横浜にある高所へ移動」


 世田谷の真下からでは、円環が見えない。

 なら、南側へ回り込む。

 東京湾に近い横浜なら、降下してくるTARAK-X(ターラクス)を斜めから捉えられる。


〔ウン〕


 瞬きを数回。

 その間に、景色が変わっていた。

 足元には、夜の街の暗い広がり。


 遠くに海の気配。

 山と呼ぶには低いが、周囲より高く開けた丘陵地。


 横浜の高所。


 空気が湿っている気がした。海に近い土地の匂いが、かすかに混ざる。

 俺は斜面から突き出した岩盤に銃身を預ける。

 岩の粗い感触が、トリックスター越しに淡く伝わってきた。


 再びスコープを覗く。


 今度は見えた。


 TARAK-X(ターラクス)の背後にある円環。


 黒い輪。

 生物の器官にも、機械の構造にも見える異常な部位。

 そこだけが、夜空の中で不気味に輪郭を持っていた。


「ここなら狙撃できる」


 口に出した瞬間、思考が次へ移る。


 狙撃だけでは足りない。

 記録が要る。

 別角度の映像が要る。


 降下中の姿勢変化。

 着弾時の反応。

 円環への初撃が有効だった場合と、無効だった場合の差。


 殺すためには、見る必要がある。まずは北側からの記録も欲しい。


「トリックスター。TARAK-X(ターラクス)を確認できるカメラを、世田谷と熊谷に送り込め」


 当然できるものだと思っていた。

 だからこそ、返答の間に気づいた。


〔ン……〕


 トリックスターの声が、初めて曇る。


〔トオイ カモ〕


 ……距離制限。ひとまず、そう判断する。


 トリックスターの創造物、あるいは子機に相当するものには、本体からの有効範囲がある。

 それが通信距離なのか、制御距離なのか、エネルギー供給の限界なのかは不明。

 だが、無制限ではない。


「川崎ならどうだ?」


 横浜より世田谷に近い。

 だが、真下ではない。

 記録用の角度としては使える。


〔ンー……イケソウ!〕


 数秒後、別視点の映像が視界の片隅に開いた。


 川崎側からの夜空。

 建物の残骸越しに見える降下体。

 距離は十分ではないが、記録としては使える。


「トリックスターの創造物には、本体との距離制限があるようです」


『確認した』


 深見の声が即座に返ってくる。

 その声には、緊張の中にも研究者としての反応が混ざっていた。


 新しい制限、新しい情報。

 それが、戦闘中であっても価値を持つ。


「このままここで待機するか、時間の許す限り、様々な位置へ移動して各種映像を送るか。判断願います」


 通信の向こうで、わずかな沈黙が落ちた。


 古川が黙った。


 珍しい。


 情報を取りたい研究者達。

 確実に狙撃させたい指揮側。


 トリックスターの異常な機動力を使えば、今からでも複数地点の映像を集められる。

 だが、移動を重ねれば、狙撃姿勢の安定と集中が削れる可能性がある。


 初撃で殺せるというのは、あまりにも楽観的だ。

 だが、ここを外せば、世田谷から激戦が長引く可能性は高い。

 そうなると、各所への被害は避けられない。


『……研究員達には悪いが、そこで待機で』


 古川の声が戻った。


『ナギ君はそこで、TARAK-X(ターラクス)の狙撃に集中してくれ』


「了解」


 俺は銃を構え直す。

 岩盤に預けた銃身が、わずかに軋む。


 トリックスターの全方位視界と、スコープの狭い視界が同時に意識へ重なる。

 広すぎる世界の中で、俺は一点だけを見る。


 円環。


 深見が脆い可能性を示した部位。

 人を収納し、空気を循環させ、母艦へ運ぶための器官かもしれないもの。

 もしそうなら、そこを壊せば落ちる。

 落ちないなら、次を探す。


 現在時刻、二十時三十八分。

 予定降下時刻まで、残り二十分。


 お前が堕ちてくるまで。


 俺はお前を、細部まで観察してやる。

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