9.可能性の星火
トリックスターに向かって、手を差し出す。
触れる前に、機体の方がこちらを迎え入れた。
指先が表面へ沈むような感覚。
冷たいとも、温かいとも言えない。
皮膚の温度を、機械の側から測られているような奇妙な接触だった。
次の瞬間、世界が反転する。
床が消える。
重力の向きが一瞬だけ曖昧になり、視界の奥で光がほどけ、周囲の音が遠くへ引き剥がされる。
そして、俺はトリックスターの内部にいた。
全方位の視界。
機械の内側にいるはずなのに、閉じ込められている感覚は薄い。
むしろ、皮膚の外側がどこまでも広がって、格納庫全体を直接見ているようだった。
床の硬さも椅子の圧迫もない。
ただ、神経だけが空間へ接続される。
ここは操縦席ではない。
胃の中に入ったというより、巨大な生き物の神経に、自分の意識を縫いつけられたような場所だった。
「トリックスター、外部と通信を繋げ」
〔ハーイ〕
無邪気な声が返ってくる。
その声を聞いた瞬間、胃液の匂いがまた鼻の奥で蘇った。
だが、もう止まらない。
喉の奥に酸が上がる感覚にも、慣れてしまった。
慣れた、というより、処理する場所を変えた。
全部、今は後ろへ追いやる。
淡々と、目の前の出来事を処理する。
『聞こえるか』
古川の声が響いた。
外部音声なのに、耳ではなく、頭蓋の内側に直接置かれるような聞こえ方だった。
「はい。こちらも音声チェック」
『良好』
古川はすぐに本題へ入る。
『早速だが、詳細な降下地点は世田谷。
佐久からはジェット機で約十分。TARAK-Xの降下予測時間は約三十分後だ。
都内は疎開が済んでいる。残っているインフラ維持要員も退避可能な時間だ。被害は最小限に抑えられる』
古川の声は冷静だった。
『海なんかに落ちたら、津波の被害は免れない。落下衝撃が少ない着陸寸前に撃ち落としてくれ』
俺の負けやミスを、一切計算に入れていない指示だった。
古川の意図を無視して、俺は自分の価値を吊り上げた。
なら、それくらいやれ。
そういうことだろう。
「了解」
短く返す。
次に、別の声が入った。
『深見だ』
少し低く、抑えた声。
研究室で聞いた時より、硬さがある。
『まだ確定ではないが、試してほしいことがある』
「はい」
『TARAK-Xの背後の円環部分。そこを初撃で狙ってほしい』
全方位視界の中に、過去の映像が浮かぶ。
あの異様な輪郭。
背後にある円環。
人間の構造から見れば無意味に見えるが、TARAK-Xにとっては、おそらく重要な器官。
『TARAK-Xは、人間を連れ去る際に円環内へ収納しているようだ』
収納。
その言葉だけで、左薬指が痛んだ。
『内部の人間が脳死状態だったことを考えると、あると仮定されている母艦まで、生体として維持したまま運ぶ必要がある可能性が高い』
生きたまま。
脳死状態。
母艦。
言葉が、整然と並べられていく。
『円環は収納区画内の空気循環を担っている可能性が高い。現時点では、最も脆い部位ではないかという意見が多い。やってみてくれ』
この人は、本当に研究者だ。
そう実感した。
普通、その怪物に妹を連れ去られ、脳死状態にされて送り込まれた人間へする話ではない。
だが、深見は言った。
必要だから。
有効かもしれないから。
殺すための手段として、そこに情報価値があるから。
そして俺の心は、一切動かなかった。
殺す。
殺す。
殺す。
殺して、データを採る。
データを使って、さらに効率よく殺す。
そのための最短ルートを提示された。
ただ、それだけだった。
「了解。いつでも行けます」
古川の声が、低く響く。
『ハッチ開放』
格納庫の天井が開き始めた。
巨大な装甲板が、重い音を立てて左右へ滑る。
空気が動く。
冷たい外気が上から流れ込み、格納庫内の金属と油脂の匂いを薄く押し流した。
次いで、足元に振動が生まれる。
トリックスターごと、昇降機のような台座が押し上げられていく。
低い駆動音。
床下から響く重い唸り。
巨大な機構が動くたび、格納庫の壁が微かに震えている。
俺の身体はここにない。
それでも、その振動は骨へ届く気がした。
開いた天井の向こうに、夜空が見えた。
冷たい大気。
遠くで走る警報音。
基地全体が、巨大な肺のように慌ただしく呼吸している。
「トリックスター、世田谷まで何分で着く?」
〔イップン!〕
あまりにも軽い答えだった。
通信の向こうで、研究員達がざわつく声が聞こえる。
一分。
佐久から世田谷まで。
通常の移動速度で考えれば、異常という言葉でも足りない。
だが、俺の感覚では、トリックスターは嘘を言っていない。
できるのだろう。この機体なら。
この忌まわしく、無邪気で、異常な機体なら。
予測時間など、ずれる前提で扱うべきだ。
「最速で行くぞ」
〔ウン!〕
トリックスターの声が弾む。
まるで遠足にでも行くような明るさだった。
俺は左薬指を握る。
痛みが走る。
その痛みを、合図にする。
吐き気も。嫌悪も。恐怖も。
全部、置いていく。
今必要なのは、速度。
昇降台が地上へ到達すると、外気が全身を撫でたように感じた。
トリックスターの視界が、基地の外縁を捉える。
次の瞬間。
ナギとトリックスターは駆け出した。




