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8.傷を抱えて


 オリビアの笑みが消え、カレンの表情からも礼儀の色が抜けた。

 さっきまで晩餐会用の礼儀を纏っていた顔が、一瞬で戦闘用の無表情へ切り替わる。


 舞台裏の空気が、急激に冷えた。


 赤い警報灯が、薄暗い空間を断続的に染める。

 幕の黒。

 床に這うケーブル。

 舞台袖に積まれた機材の輪郭。

 その全てが赤く浮かび、次の瞬間には闇へ沈む。


『第一種警報! 第一種警報!』


 警報音声が会場全体を叩いている。

 表側では、椅子が引かれる音や警備員の足音、複数言語の短い指示が重なっていた。

 だが、舞台裏にいる俺達は、誰も無駄に動かない。

 全員が、警報に神経を集中させている。


 必要な情報が流れるまで、誰も余計な判断を挟まない。

 警報の文言は拾っている。

 だが、意識の全てをそこへ向けたわけではない。


 あえて、周囲の気配に神経を割く。


 今は舞台裏だ。


 照明は薄い。

 人の配置も乱れている。

 警報によって、全員の注意が外へ向いている。


 仕掛けるなら、絶好の機会だった。


 TARAK-X(ターラクス)の襲撃。


 世界規模の緊急事態。

 その混乱に紛れて誰かを消すには、これ以上ない条件だ。

 視線だけを動かす。


 オリビア、カレン。

 舞台袖へ駆け込んでくる警護員達。

 ジョンソン総司令の背中。

 幕の影。


 カーテンの裾。


 ――カサッ。


 カーテンの裾から小さな音がした。

 布が擦れる音。

 空調ではない。

 赤い光の端で、裾が薄く揺れた。


 俺は、あえて思いきり視線をぶつけた。

 睨むのではない。

 見た、と知らせる。

 お前の存在を認識している。


 今この場で動けば、俺はそれを無視しない。

 そういう意味を、目線だけで置いた。


『TARAK-X(ターラクス)の降下地点予測完了!』


 警報音声が、さらに強い調子で告げる。


『A地点、北緯四十二度帯、中央大陸域』


 カーテンの裾からは、まだ気配が残っている。


『B地点、北緯五十二度帯、西方海岸圏』


 俺は視線を逸らさない。


『C地点、東縁列島、内陸圏』


 赤い光が点滅するたび、布の陰影が変わる。


『D地点、東縁大陸、沿岸域』


 四か所。

 思考が、警報の文言を拾う。

 全て、トリックスター本機と各国の量産型が降下した地点だ。


 偶然ではない。

 少なくとも、偶然と処理するには綺麗すぎる。


『繰り返します。TARAK-X(ターラクス)の降下地点予測完了――』


 カーテンの裾から、人の気配が消えた。


 動いたのか。

 退いたのか。

 誰を狙っていたのかは不明だ。


 俺か。オリビアか。カレンか。ジョンソン総司令か。


 あるいは、単なる警備上の移動を、俺が過剰に拾っただけか。

 今は確定できない。


 ただ、舞台裏へ警護員達が続々と集まり始めたことで、その影を追う余地は消えた。

 警備の厚みが増す。


 無線の声が飛び交う。

 装備が擦れる音。

 靴底が床を叩く音。

 誰かの短く荒い呼吸。


 晩餐会の匂いは、もうここまで届かない。

 代わりに、緊張した人間の汗と、機材の熱を帯びた金属臭が濃くなる。

 リスクを避けるため、警護員達の誘導で俺達は舞台裏から出された。


 各国の代表、指揮官、研究者、警護員達が、それぞれの言語で一気に動き始める。


 会議というより、解体された会場の中で無数の判断が同時に走っている状態だった。

 その混乱の中で、古川が俺の前へ来る。

 顔から軽さが消えていた。


「ナギ君」


 短い呼びかけ。


「乗れるね」


 問いではない。確認だった。

 俺の体調も、精神状態も、昨日の映像も、左薬指の痛みも。

 全部、今は横に置け。

 その類の確認。


「はい」


 返事は簡潔だった。

 それ以上の言葉は必要ない。


 俺の目的は、TARAK-X(ターラクス)の殲滅だ。


 降下したなら、殺す。

 感情は、その後だ。


 そのまま、俺達はトリックスターの格納庫へ向かった。


 廊下は、すでに戦時の顔へ変わっていた。

 警備員が走る。

 搬送用のカートが低い音を立てて通過する。

 端末の通知音が途切れず鳴り続ける。

 遠くで誰かが怒鳴っている。


 床の硬さが、靴底越しに響く。

 空調は効いているはずなのに、空気が熱い。

 人間の焦りと、機械の稼働熱と、警報灯の赤が混ざって、廊下全体が巨大な血管の中みたいに脈打っていた。


(あの忌まわしい無邪気さに触れるには、まだ早い)


 内心でそう思う。


 トリックスター。

 あの声。あの記録。ナミの解体映像。

 傷は癒えていない。

 癒えるどころか、まだ触れれば血が出る。


 だが、状況はこちらの回復を待たない。

 古川が歩きながら告げる。


「降下地点は、トリックスターの降下地点と同じだ」


 声は速いが、乱れてはいない。


「降下体は各地点に一体。計四体」


 四体。


 こちらには、トリックスター本機と、各国の量産型。

 降下地点の一致。


 意味はあるはずだ。

 だが、今考えすぎると足が遅れる。

 必要な情報だけを残し、余計な仮説を一度切る。


 格納庫の扉が近づく。


 金属と油脂の匂いが濃くなる。

 巨大な機材が動く前の、低い唸り。

 胸の奥が、わずかに反応した。


 吐き気ではない。

 その手前の、胃が硬くなる感覚。


 扉が開いた。

 広い格納庫へ入った瞬間、視界の奥に巨大な影が見える。


 トリックスター。


 機体表面の一部が、こちらを認識したように淡く光った。


〔オカエリー!〕


 明るい声が響いた。


 その瞬間、消え去ったはずの吐瀉物の匂いが、脳の奥を占めた。

 実際に匂うわけではない。

 格納庫にあるのは、金属と油脂と冷却材の匂いだ。

 だが、俺の鼻の奥には、あの酸っぱい臭気が蘇っていた。


 床に吐いた感触。

 喉の焼ける痛み。

 左薬指を握り潰した時の神経の熱。

 ナミが解体されていく映像。


 全部が、一瞬で戻ってくる。


〔イツデモ イケルヨ!〕


 トリックスターは、はしゃぐように言った。


 TARAK-X(ターラクス)の降下を、誰かの報告で聞いたのか。

 それとも、自分で察知できるのか。

 確認したいことは多い。多すぎる。


 だが、最優先は違う。

 今は問い詰める時間ではない。


 俺は左薬指を握った。


 痛みが走る。

 その痛みだけが、吐き気と記憶の中から、俺を引き戻す。


(薬指(ナミ)、行こう)


 心の中で告げる。返事は聞こえない。

 けれど、それでいい。


 俺はトリックスターへ、一歩踏み出した。

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