6.最後の夜
シミュレーターは、俺の惨敗だった。
一対一では、小賢しい手にも限度がある。
初戦、二戦目までは、遮蔽の使い方やフェイントでどうにか誤魔化せた。
発射タイミングをずらす。
視線誘導を挟む。
あえて撃たずに相手の反応を見る。
だが、それも長くは続かない。
エマは一度見た手を、次の試合にはもう警戒していた。
警戒するだけではない。最短で踏み込んでくる。
こちらが嫌がる距離を、まるで嗅ぎ分けるみたいに詰めてくる。
終盤は七連敗。
大敗と言っていい。
「な! オレ強いだろ!」
全てが終わった後、エマが屈託なく笑った。
頬には汗で髪が張りついている。
短いツインテールも乱れ、額には細かな汗が浮いていた。
それでも、その瞳だけはまだ光っている。
疲労より先に、楽しさが出る顔だった。
「恐ろしいくらいにな」
俺も汗を拭いながら答える。
シミュレーター室には、機械の熱と人間の体温がこもっていた。
金属と樹脂の匂い。
空調で冷やされきらない空気。
ゴーグルを外した後の、額に残る圧迫感。
掌には、まだレバーの硬さが残っている。
指を開くと、関節がわずかに重かった。
時刻は、十七時。
思ったより時間が経っている。
「晩餐会の用意もあるだろうし、引き上げようか」
「あぁ! 本当に楽しかった! ありがと!」
エマは挨拶もそこそこに、ぴょんぴょんと跳ねるように手を振った。
疲れているはずなのに、動きが軽い。
廊下へ続く扉が開くと、彼女はそのまま勢いよく飛び出していった。
エマの警護員も、短く礼をしてすぐに続く。
扉が閉まる。
シミュレーター室の中に、急に静けさが戻った。
「晩餐会用の服はこちらで手配しておきました。自室へ戻りましょう」
佐々木が声をかけてきた。
先ほどより顔色がいい。
目の下の疲労は完全には消えていないが、少なくとも、昼前よりは呼吸が整って見えた。
「休めたか?」
一つの推察を、そのまま投げた。
佐々木は、わずかに間を置いた。
「……おかげさまで。これだけの警備人員がいますからね」
それから、いつもの事務的な顔へ戻る。
「ただし、先ほどのカレン・リウ様との接触と、シミュレーターの結果は送っておきました」
「それでいい」
俺は歩きながら返す。
廊下の空気は、シミュレーター室より冷えていた。
汗を含んだ服に空調の風が当たり、背中が少し寒い。
「晩餐会なんて、俺に接触しやすく、暗殺も狙いやすい」
佐々木がこちらを見る。
俺は、その視線に応えるように言った。
「俺は、ここで休息を挟んだ貴方の判断は正しいと思いますよ」
「どうも」
短い返答だった。
それ以上、佐々木は何も言わなかった。
自室に戻り、再び汗を落とす。
シャワーの湯が首筋を流れた瞬間、シミュレーターの熱がようやく身体から剥がれていく気がした。
肩に残った緊張。掌の強張り。
瞼の奥に残る疑似的な照準線。
それらが、水音の中で少しずつ薄くなる。
シャワー室を出ると、用意されていた礼服に袖を通す。
普段の服より布地が硬い。
襟元が少し窮屈で、袖口も手首をきちんと拘束する。
国際組織の晩餐会に出るための服。
ただの食事ではない。
視線と会話と値踏みの場だ。
時計を見る。
十八時五十分。
その直後、インターフォンが鳴った。
エマの時のような外の喧騒はない。
なら、古川が建前上鳴らしたのだろうか。
「どうぞ」
短く答えると、扉が開いた。
そこに立っていたのは、亜美だった。
淡い紺色のワンピース。
露出は控えめで、袖は半袖、丈は膝下まである。
髪はハーフアップにされ、控えめな髪飾りが一つだけ添えられていた。
我が国の十代の少女らしい、過剰に飾らず、場に合わせた装いだった。
いつもと違う。
それだけで、印象がかなり変わる。
普段の亜美は、俺の近くで少し強張りながらも、必要なことは言う。
だが今は、扉の前で顔を斜め下へ向け、指先を小さく揃えている。
布の淡い色が、白い廊下の照明を受けて静かに沈んで見えた。
『いつもと違う格好をしていたら、褒めるものなの!』
ナミの声がした。
私服を買うたびに、俺の前で勝手にファッションショーを始めていた声。
『ほら、ナギ。ここ見て。ここ。可愛いでしょ?』
そう言われて適当に返すと、必ず怒られた。
『適当禁止! ちゃんと見て!』
左薬指が少し痛む。
俺は亜美を見た。
「かなり印象が変わるな。似合っているよ」
亜美の顔が、一気に赤くなった。
斜め下を向いていた顔が、完全に下を向く。
耳まで赤い。
返答はない。
だが、指先がワンピースの布を少しだけ握った。
そこへ、亜美の後ろから古川が割って入った。
「お邪魔して悪いね!」
声が明るい。
だが、顔にはやはり疲労がある。
「でも時間だ。ナギ君、亜美君のエスコートを頼んだよ」
古川はそう言うと、こちらの返事を待たずに歩き出した。
亜美はまだ下を向いている。
俺は一歩、彼女の横へ並んだ。
「行こうか」
「……はい」
亜美の声は、少しだけ小さかった。
廊下には、晩餐会へ向かう人間達の足音が増え始めていた。
礼服の布が擦れる音。
警備員の靴音。
遠くから聞こえる複数言語の低い会話。
空気が、昼とは違う重さを持ち始めている。
訓練でも、模擬戦でもない。
これから向かうのは、笑顔で互いの距離を測る場所だ。
古川の背中を追いながら、俺は亜美と共に会場へ向かった。




