↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
59/69

5.姉妹


「メイリン、大丈夫!?」


 カレンは少女の肩に手を置き、顔を覗き込んだ。

 その指先は、強く掴みすぎないよう抑えられている。


 けれど、声は震えていた。

 彼女たちの言語で紡がれる言葉も、細い肩越しに見える身体の震えも、焦りを隠しきれていない。


 藍色の髪が、廊下の白い照明を受けて冷たく光る。

 少女――メイリンは、佐々木から受け取ったハンカチを握ったまま、小さく頷いた。


「うん……皆様に、助けていただいて……」


 涙で濡れた声だった。

 まだ呼吸が浅い。

 目元は赤く、睫毛には細かい水滴が残っている。

 それでも、言葉を選ぼうとしているのは分かった。


 カレンの目が、真っ先に俺へ向いた。

 それからエマ。佐々木。エマの警護員。周囲の警備員。


 短く、鋭く、視線が走る。


 状況を組み立てている目だった。


 何が起きたのか。

 誰が関与したのか。

 誰に礼を言い、誰を警戒すべきか。


 妹を前にして焦っているはずなのに、その判断だけは落ちていない。


「アイザワさん」


 カレンは姿勢を正した。

 言語を公用語へ戻す。

 声には、まだ息の乱れが混ざっていた。


「妹を助けていただき、ありがとうございます」


 妹。


 その単語が、胸の奥を鈍く叩いた。

 左薬指が痛む。

 さっきまで薄く残っていたナミの声が、廊下の冷たい空気の中で、また少し輪郭を持ちそうになる。


 俺は表情を変えないようにして答えた。


「俺が見たのは途中からです。詳しい事情は分かりません」


 助けた、と断言するには情報が足りない。


 あの男が何者なのか。

 どういう経緯でメイリンに怒鳴っていたのか。

 カレンの国の内部事情がどうなっているのか。


 不明なことが多すぎる。

 そして何より、他国の事情に不用意に介入したくなかった。


「ただ、あの場所で、あの言い方は不適切だと思ったので声をかけました」


 カレンは一瞬だけ目を伏せた。


「……はい」


 短い返事だった。


 そこには、事情を知っている人間の重さがあった。

 廊下の空気はまだ硬い。


 消毒液の匂い。

 金属製の扉が並ぶ無機質な景色。

 警備員達の装備が擦れる小さな音。

 遠くで鳴る端末の通知音。


 その全部が、さっきの怒鳴り声の余熱を薄く引き延ばしていた。


「え、妹? カレンの妹なのか?」


 エマが、ようやく状況を少し理解したように声を上げる。

 カレンはエマの方を向き、簡潔に答えた。


「はい。妹のメイリン・リウです」


 メイリンは、まだ涙の残る目で小さく頭を下げた。

 礼儀正しい動きだった。

 だが、怯えは完全には抜けていない。


 ハンカチを握る指先が白くなっている。

 細い肩も、まだわずかに震えていた。


 そこへ、エマが踏み込んだ。


「メイリンは、なんであんな目に遭ってたんだ?」


 ……エマの悪いところが出た。


 直線的すぎる。

 疑問を疑問のまま、相手の前に置く。

 それが時に救いになることもあるのだろう。

 だが、今は危うい。


 これ以上、関わりたくなかった。


 俺は俺の事情だけで手一杯だ。

 エマを構っているのは、彼女の兄の話に感化された部分も確かにある。だが、それだけではない。


 エマは、自分で解決できる。


 幼いながらに身近な死を経験し、それを抱えたまま自己を確立している。

 模擬戦で見た通り、戦力としても一級だ。

 他国の最強の手札であり、自分の問題を自分で処理できる人間。


 だから、多少踏み込んでも、致命的な負荷にはなりにくい。

 少なくとも、そう判断できる。


 だが、この姉妹は違う。


 カレンはまだ読める。

 優秀で、焦っても判断を落とさない。

 ただ、背後に何かがある。


 メイリンはさらに不鮮明だった。


 自分の問題を自分で処理できるようには見えない。

 それどころか、問題を抱えたまま他国の施設内で泣かされている。


 関われば、確実に重い。

 心の底から関わりたくない。


 だが、エマはそれを許さない。


 佐々木へ視線を送ろうとした。

 この場から俺達を引き離せ。

 そう伝えるつもりだった。


 その直前、メイリンがぽつりと口を開いた。


「私の警護の方なんですけど……」


 か細い声だった。

 だが、そこには事情を話そうとする意思があった。


 カレンの表情が変わる。


「すみません」


 カレンが、その言葉を断ち切った。

 妹より半歩前へ出る。

 声は静かだったが、明確な硬さがあった。


「家の事情です。このような場で、騒ぐべきではありませんでした。こちらで厳重に注意いたします」


 それ以上は、語らせない。そういう線引きだった。


 カレンは深く頭を下げた。

 メイリンも、それに続くように小さく頭を下げる。

 藍色の髪が、二つ分、白い廊下で揺れた。


「失礼します」


 短く告げて、カレンはメイリンの肩に手を添えた。

 強く引くのではなく、誘導するように。

 メイリンはハンカチを握ったまま、何度かこちらを振り返り、それでも姉に従って歩き出す。


 二人の足音が遠ざかる。


 藍色が、廊下の角へ消えていく。

 何とも言えない空気が残った。

 エマは珍しく黙っていた。


 佐々木は何も言わない。

 エマの警護員も、視線だけで状況を測っている。


 国際施設の白い廊下に、さっきの少女の嗚咽だけが、まだ薄く残っている気がした。


 俺は息を吐いた。


「解決したようだし、予定通りシミュレーターでもやるか」


 あえて、何もなかったように言った。

 エマは一瞬、困惑した顔をした。

 多分、彼女の中ではまだ何かが引っかかっている。

 だが、数秒後には顔を上げた。


「考えても仕方ないし、そうだな!」


 笑顔。

 いつもの明るさ。

 ただ、ほんの少しだけ、さっきより硬い。


 それでもエマは、俺の手を取った。

 温かい指が、袖越しに触れる。


「行こうぜ、アイザワ!」


 そのまま引っ張られる。


 俺は逆らわずに歩き出した。


 シミュレータールームの扉が近づく。

 金属と樹脂の匂いが濃くなる。

 遠くで機械の駆動音が低く鳴っている。


 背後には、まだ解決していない何かが残っていた。


 だが今は、振り返らなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。