5.姉妹
「メイリン、大丈夫!?」
カレンは少女の肩に手を置き、顔を覗き込んだ。
その指先は、強く掴みすぎないよう抑えられている。
けれど、声は震えていた。
彼女たちの言語で紡がれる言葉も、細い肩越しに見える身体の震えも、焦りを隠しきれていない。
藍色の髪が、廊下の白い照明を受けて冷たく光る。
少女――メイリンは、佐々木から受け取ったハンカチを握ったまま、小さく頷いた。
「うん……皆様に、助けていただいて……」
涙で濡れた声だった。
まだ呼吸が浅い。
目元は赤く、睫毛には細かい水滴が残っている。
それでも、言葉を選ぼうとしているのは分かった。
カレンの目が、真っ先に俺へ向いた。
それからエマ。佐々木。エマの警護員。周囲の警備員。
短く、鋭く、視線が走る。
状況を組み立てている目だった。
何が起きたのか。
誰が関与したのか。
誰に礼を言い、誰を警戒すべきか。
妹を前にして焦っているはずなのに、その判断だけは落ちていない。
「アイザワさん」
カレンは姿勢を正した。
言語を公用語へ戻す。
声には、まだ息の乱れが混ざっていた。
「妹を助けていただき、ありがとうございます」
妹。
その単語が、胸の奥を鈍く叩いた。
左薬指が痛む。
さっきまで薄く残っていたナミの声が、廊下の冷たい空気の中で、また少し輪郭を持ちそうになる。
俺は表情を変えないようにして答えた。
「俺が見たのは途中からです。詳しい事情は分かりません」
助けた、と断言するには情報が足りない。
あの男が何者なのか。
どういう経緯でメイリンに怒鳴っていたのか。
カレンの国の内部事情がどうなっているのか。
不明なことが多すぎる。
そして何より、他国の事情に不用意に介入したくなかった。
「ただ、あの場所で、あの言い方は不適切だと思ったので声をかけました」
カレンは一瞬だけ目を伏せた。
「……はい」
短い返事だった。
そこには、事情を知っている人間の重さがあった。
廊下の空気はまだ硬い。
消毒液の匂い。
金属製の扉が並ぶ無機質な景色。
警備員達の装備が擦れる小さな音。
遠くで鳴る端末の通知音。
その全部が、さっきの怒鳴り声の余熱を薄く引き延ばしていた。
「え、妹? カレンの妹なのか?」
エマが、ようやく状況を少し理解したように声を上げる。
カレンはエマの方を向き、簡潔に答えた。
「はい。妹のメイリン・リウです」
メイリンは、まだ涙の残る目で小さく頭を下げた。
礼儀正しい動きだった。
だが、怯えは完全には抜けていない。
ハンカチを握る指先が白くなっている。
細い肩も、まだわずかに震えていた。
そこへ、エマが踏み込んだ。
「メイリンは、なんであんな目に遭ってたんだ?」
……エマの悪いところが出た。
直線的すぎる。
疑問を疑問のまま、相手の前に置く。
それが時に救いになることもあるのだろう。
だが、今は危うい。
これ以上、関わりたくなかった。
俺は俺の事情だけで手一杯だ。
エマを構っているのは、彼女の兄の話に感化された部分も確かにある。だが、それだけではない。
エマは、自分で解決できる。
幼いながらに身近な死を経験し、それを抱えたまま自己を確立している。
模擬戦で見た通り、戦力としても一級だ。
他国の最強の手札であり、自分の問題を自分で処理できる人間。
だから、多少踏み込んでも、致命的な負荷にはなりにくい。
少なくとも、そう判断できる。
だが、この姉妹は違う。
カレンはまだ読める。
優秀で、焦っても判断を落とさない。
ただ、背後に何かがある。
メイリンはさらに不鮮明だった。
自分の問題を自分で処理できるようには見えない。
それどころか、問題を抱えたまま他国の施設内で泣かされている。
関われば、確実に重い。
心の底から関わりたくない。
だが、エマはそれを許さない。
佐々木へ視線を送ろうとした。
この場から俺達を引き離せ。
そう伝えるつもりだった。
その直前、メイリンがぽつりと口を開いた。
「私の警護の方なんですけど……」
か細い声だった。
だが、そこには事情を話そうとする意思があった。
カレンの表情が変わる。
「すみません」
カレンが、その言葉を断ち切った。
妹より半歩前へ出る。
声は静かだったが、明確な硬さがあった。
「家の事情です。このような場で、騒ぐべきではありませんでした。こちらで厳重に注意いたします」
それ以上は、語らせない。そういう線引きだった。
カレンは深く頭を下げた。
メイリンも、それに続くように小さく頭を下げる。
藍色の髪が、二つ分、白い廊下で揺れた。
「失礼します」
短く告げて、カレンはメイリンの肩に手を添えた。
強く引くのではなく、誘導するように。
メイリンはハンカチを握ったまま、何度かこちらを振り返り、それでも姉に従って歩き出す。
二人の足音が遠ざかる。
藍色が、廊下の角へ消えていく。
何とも言えない空気が残った。
エマは珍しく黙っていた。
佐々木は何も言わない。
エマの警護員も、視線だけで状況を測っている。
国際施設の白い廊下に、さっきの少女の嗚咽だけが、まだ薄く残っている気がした。
俺は息を吐いた。
「解決したようだし、予定通りシミュレーターでもやるか」
あえて、何もなかったように言った。
エマは一瞬、困惑した顔をした。
多分、彼女の中ではまだ何かが引っかかっている。
だが、数秒後には顔を上げた。
「考えても仕方ないし、そうだな!」
笑顔。
いつもの明るさ。
ただ、ほんの少しだけ、さっきより硬い。
それでもエマは、俺の手を取った。
温かい指が、袖越しに触れる。
「行こうぜ、アイザワ!」
そのまま引っ張られる。
俺は逆らわずに歩き出した。
シミュレータールームの扉が近づく。
金属と樹脂の匂いが濃くなる。
遠くで機械の駆動音が低く鳴っている。
背後には、まだ解決していない何かが残っていた。
だが今は、振り返らなかった。




