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4.藍紅の少女


 悲鳴がした方向へ視線を向ける。


 廊下の少し先。

 警備動線から外れた壁際に、一人の少女が立ち尽くしていた。


 俺の地域に近い人間の肌色。

 高い位置で二つに結ばれた、藍色の髪。

 深い黒紅の瞳。

 年齢は、おそらく俺と同じくらい。


 見覚えはない。


 だが、この施設にいる少女で、あの言語を使う。

 その時点で、カレン・リウの国の関係者と見ていいだろう。


 少女は泣いていた。

 泣き方が、酷く幼い子供のそれだった。

 声を押し殺そうとしているのに、喉が勝手に震えて、息が引き攣っている。肩が小さく上下し、指先は服の裾を強く掴んでいた。


 その近くに、体格の良い男が立っている。


 肩幅が広く、腕が太い。

 立ち方に、他人を威圧することへ慣れた人間の雑さがある。


「うるせぇな! 騒ぐな!」


 少女と同じ言語で、男が怒鳴った。

 荒い発音で、口の奥に唾が絡むような声だった。


「次騒いだら殺すぞ!」


 その場の警備員達が、全員一瞬だけ男を見る。

 無線へ手を伸ばす者はいた。

 だが、誰も最初の一歩を踏み出せない。

 相手がどの国の誰かを、把握している顔だった。


 少女の肩が跳ねる。

 涙が頬を伝い、顎の先で小さく落ちた。

 廊下の白い床に、一滴だけ濡れた跡が残る。


「え? 何だあれ……パイロット候補生の子?」


 エマが眉を寄せる。


「なに言われてんだ?」


 状況を理解していないのだろう。


 エマが使う公用語とは違う。

 男の言葉も、少女の悲鳴も、エマにはただ荒い音の塊として届いているはずだった。


 俺には関係ない。

 無視してもいい。


 各国の管理問題だ。

 この場で俺が口を挟めば、無駄な摩擦を生む可能性もある。


 そう判断した。

 判断したはずだった。


『私のナギは、強くって優しくってカッコいいんだから!』


 突如、ナミの声が脳に響いた。


 明るくて。

 得意げで。

 何の根拠もなく俺を世界一だと信じていた声。


 エマが兄の話をしすぎたせいかもしれない。

 昼食の席で、ナミの輪郭を思い出しすぎたせいかもしれない。


 昔から、ナミは何かあるたびにそう言った。


 ナミが誰かと口論した時。

 俺が面倒を避けようとした時。

 俺が、合理的に正しい方へ逃げようとした時。


『ナギはいつも私を守ってくれたよね』


 耳の奥ではなく、もっと内側。

 左薬指の痛みの近くで、声がした。


「場所、考えた方がいいですよ」


 気づいた時には、俺は男へ同じ言語で声をかけていた。


 男が反射的にこちらを睨む。

 目つきは荒い。

 怒鳴り返すつもりだったのだろう。


 だが、その視線が俺の顔を捉えた瞬間、男の表情が変わった。


 相澤ナギ。


 トリックスター本機の操縦者。

 昨日の模擬戦で、エマ・ハリントンとオリビア・カーターを落とした十四歳。

 その認識に到達したのだと思う。


 男の喉が、一度だけ上下した。

 汗の匂いが、わずかに強くなる。

 怒鳴り声の熱だけが残った廊下で、男は何も言わなかった。

 俺を睨みつけたまま数秒固まり、それから乱暴に視線を外す。


 足音を荒く鳴らして、その場を去っていった。


 泣いている少女が一人、残ったまま。


「こんにちはー……って、伝わるかこれ?」


 エマが少女の前で両手を少し上げる。

 どうしていいのか分からないらしい。

 少女を見て、俺を見て、自分の警護員を見て、また少女を見る。

 視線が忙しく散らかっていた。


 佐々木は何も言わず、一歩前へ出た。

 胸元からハンカチを取り出す。

 飾りも、柄もない。

 無地で、実用性だけを考えたような、いかにも佐々木らしい薄い布。


 それを、少女へ差し出した。

 少女は最初、それが何か分からないように見ていた。

 少し間をおいて理解したのだろう。それから、小さな手で受け取る。


 涙を拭う。

 鼻をすすり、呼吸を整えようとして、また少しだけ喉が震える。

 それでも、さっきよりは落ち着いていた。


「……助けてくれて、ありがとうございます」


 たどたどしい言葉だった。

 だが、それはここで公用語として使われている言語だった。


 発音はまだ硬い。

 単語の繋ぎ方も少しぎこちない。

 それでも、意味は通じる。


「怪我は?」


 俺が聞くと、少女は首を横に振った。


「ない、です」


 声は細い。

 けれど、意識ははっきりしている。

 その瞬間だった。


「メイリン!!」


 叫び声が、廊下の向こうから聞こえた。

 走ってくる足音。

 高い靴音ではない。

 硬い床を、迷いなく蹴る音。


 現れたのは、カレン・リウだった。


 少女と同じ藍色の髪。

 ただし、カレンのそれは腰まで真っ直ぐ伸び、毛先まで綺麗に切りそろえられている。

 深い黒紅の瞳も同じだった。


 だが、印象は違う。


 少女がまだ不安定な小鳥のように見えるのに対し、カレンは張り詰めた弓に近い。

 息が少し乱れている。

 整った顔に、明確な焦りが浮かんでいた。

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