3.狭間の時間
奇妙な温度を持つ少女との食事が、終わろうとしていた。
食事には、半分ほどしか手をつけていない。
スープの湯気はもう細くなり、焼き目のついた鶏肉も、温野菜も、運ばれてきた時の温度を失いつつあった。穀物の淡い甘さだけが、冷えた空気の中に薄く残っている。
それでも、会話だけは妙に生きていた。
ナミの話。
エマの兄の話。
人が急にいなくなるという、どうしようもない事実の話。
明るいのに、軽くない。
重いのに、沈まない。
エマ・ハリントンという少女は、やはりよく分からなかった。
その時だった。
カシャン、と音を立てて、扉のロックが外れた。
俺の部屋を、無断で開けられる人物は限られている。
顔を向けると、開いた扉の向こうに古川が立っていた。
「あれっ、エマ君もいたのかい」
古川は一瞬だけ目を丸くしたあと、すぐにいつもの軽い顔へ戻った。
「あ! アイザワのところの偉い人だ!」
エマが椅子の上で身を乗り出す。
「偉い人、で済ませてもらえるなら楽でいいね」
古川は笑った。
だが、その目の下にも薄い疲労がある。
昨日から今朝にかけて、大人は誰一人まともに休めていないのだろう。
部屋の中には冷えた食事の匂い。
廊下からは、消毒液と機械油が混ざったような匂い。
その境界に立つ古川は、要件だけを持ってきた人間の顔をしていた。
「ちょうど良かった。二人に用事があったんだよ」
古川は端末も見ずに続ける。
「今日で各国は引き上げる。だから最後に、晩餐会を開こうという話になってね。十九時に迎えが来るから、各自部屋で待機していて」
「晩餐会?」
「名目上は親睦。実質は、各国の顔合わせと最後の情報交換だね」
古川は肩をすくめた。
「ナギ君もエマ君も、主役だから欠席はなし」
そう言うと、こちらの返事を待つ気もなく踵を返す。
本当に忙しいのだろう。
要点だけを置いて、古川はさっさと部屋を出ていった。
扉が閉まる。
カシャン、と再びロックの音が鳴った。
その音が消える前に、エマがぽつりと言った。
「オレたち、今日帰るんだ」
さっきまでの勢いが、少しだけ落ちていた。
「寂しいな」
それは、意外なほど素直な声だった。
俺は返答に迷う。
寂しい。
その言葉を、今の俺がどの程度正しく扱えるのか分からなかった。
だが、エマは沈黙を長く残す少女ではなかった。
「なぁ、アイザワ!」
次の瞬間には、もう顔を上げている。
「晩メシまで暇だったら、機体操作用のシミュレーターで対戦しようぜ」
兄の話を打ち明けたからだろうか。
それとも、単に賭けの食事を済ませて距離が縮まったと思っているだけなのか。
エマのこちらを見る目は、昨日までの好戦的な好奇心だけではなかった。
もっと無防備で。
もっと屈託なく。
懐いてくる小動物のような直線性がある。
ただし、その小動物は銃も大剣も扱える。
佐々木へ視線を向ける。
佐々木は壁際で目を伏せたままだった。
好きにしてください。
そう言っているように見えた。
あるいは、もう止めるだけ無駄だと判断しているのかもしれない。
データは、あればあるだけ良い。
「いいよ」
俺が軽く了承した瞬間、エマは弾けるように立ち上がった。
「よしっ!」
椅子の脚が床を擦れ、次の瞬間、俺の腕が掴まれた。
エマの手は小さいが、力は強い。
体温が高く、指先の熱が袖越しに伝わってくる。
「行こうぜ!」
「食事は」
「オレはもう終わった!」
即答だった。
俺は半ば引きずられるように立ち上がる。
エマの警護員が慌てて動く気配がした。
佐々木は、深くはないが確かに溜息を吐いた。
そのまま扉が開く。
カシャン、と乾いた音がして、俺たちは部屋を出た。
廊下の空気は部屋より冷たかった。
空調の風が首筋を撫でる。
床は硬く、エマの足音だけがやけに軽い。
遠くで端末の通知音が鳴り、警備員の無線が短く雑音を吐いた。
シミュレータールームへ向かう間も、エマはずっと喋っていた。
「オレね、アニキに一回もゲームで勝てたことないんだ」
歩きながら、楽しそうに言う。
「どんなゲームでも。シューティングも格闘もレースも。最初は手加減してくれるんだけど、ちょっと勝てそうになるとすぐ本気出すんだよ」
エマは笑っていた。
その笑いには、悔しさよりも懐かしさが濃かった。
「今動かしてるロボットもさ、きっとアニキがいたら、オレよりもっと上手かったよ!」
その言葉に、影はなかった。
少なくとも、そう見えた。
死んだ人間を、まだ未来の中に置いて話す。
それが乗り越えた結果なのか、乗り越えていない証拠なのかは分からない。
ただ、エマの中で兄はまだ動いている。
今も、彼女の判断基準の中にいるのだろう。
「大剣はな、最初は自分の重さを剣に全部乗っけるんだ」
エマは両手で大剣を振る真似をした。
「で、最後に前ジャンプを入力すると、もう一回、力が入るんだぜ。相手がビビる!」
「それはビビるというより、タイミングを崩されるんだと思う」
「同じだろ!」
「厳密には違う」
「アイザワ、そういうとこ!」
エマは笑う。
廊下の白い照明の下で、短いツインテールが跳ねる。
昨日までなら、その明るさはただ騒がしいだけに見えたかもしれない。
今は、少し違って見えた。
明るさの中に、失ったものを燃料にして動いているような危うさがある。
けれど、それを憐れむのは違う。
多分、エマはそんな見方を嫌うのではないか。
シミュレータールームが近づくにつれ、人の気配が増えた。
警備の足音や、低い話し声。
機械室特有の熱を帯びた空気。
金属と樹脂の匂いが濃くなっていく。
その直前だった。
「やめて!」
東縁大陸の言語で、少女の悲鳴が聞こえた。
甲高く、切迫した声。
廊下の空気が、一瞬で変わる。
エマの足が止まった。
俺も、反射的に声のした方へ視線を向けた。




