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2.変化する温度


「エマ!」


 俺が答えるより先に、エマの警護員が制止の声を上げた。

 硬い声だった。

 部屋の空気が、一瞬で冷える。


 白いトレーの上では、湯気の立つスープがまだ揺れていた。焼き目だけが整った鶏肉。温野菜の青い匂い。柔らかく炊かれた穀物の淡い甘さ。


 誰の国の料理でもない。

 栄養、宗教、体調、文化差。その全部に角が立たないよう、慎重に中心へ寄せた食事。

 その無難な匂いの中で、エマの言葉だけが、まっすぐ骨へ触れてきた。


「……いえ、大丈夫ですよ」


 俺は左薬指を握ったまま、短く息を吐く。


「そうです。こっちでは、骨壺って言うんですよ」


「TARAK-X(ターラクス)にやられたの?」


 エマは、ほとんど間を置かずに聞いた。


「あと敬語やめて!」


 ダメもとで、やんわりと話題を逸らそうとした。

 だが、効くわけがなかった。

 この少女は、曲がらない。

 曲がらないまま、相手の傷口へ最短距離で歩いてくる。


 佐々木は目を伏せた。


 傍観に徹するつもりなのだろう。止めれば止めるほど、エマが踏み込むと判断したのかもしれない。


 俺は、全てを諦めた。


「わかった」


 敬語を外す。

 口の中に、薄い違和感が残った。


「骨は、そう。初回の襲撃で……妹が、ね」


 言葉にすると、部屋の温度がさらに下がった気がした。

 スープの湯気が細く揺れる。

 空調の音が、やけに近い。


「人ってさ」


 エマはスプーンもフォークも持たないまま、トレー越しに俺を見ていた。


「ビックリするくらい、急にいなくなるよな」


 正直、その返答は想像していなかった。


 同情でもない。

 慰めでもない。

 好奇心でも、残酷さでもない。

 俺は驚きを表情に出さないまま、エマの次の言葉を待った。


「オレもさ、アニキが死んでんだよね。二年前に事故で。すっごいビックリした」


 エマの声は明るくなかった。

 けれど、沈んでもいなかった。

 古傷を見せる時の、乾いた平坦さがあった。


「アイザワは、まだビックリのまんまだと思う」


 その言葉だけが、少し深く入ってきた。


「なのに、すげーよな」


 返せなかった。


 エマが兄を亡くしていること。

 それを乗り越えているように見えること。

 それでも俺に、そんな言葉をかけること。

 全てが真っ直ぐすぎて、読み解けなかった。


 普通、人間はもう少し隠す。

 誤魔化す。

 整える。

 傷に綺麗な布を被せてから、差し出す。


 けれどエマは違う。


 傷口を傷口のまま見せて、それでいて、こちらの傷も当然そこにあるものとして見てくる。


「すっげぇ頭が良くってさ」


 エマは少しだけ視線を上げた。

 天井ではなく、多分、記憶の中の誰かを見ていた。


「何でも出来て、オレにスポーツとかゲームとか……勉強は聞いてなかったけど、何でも教えてくれて。凄いアニキだったんだ」


 警護員の女性は何も言わなかった。

 佐々木も動かない。

 部屋には、国際標準の昼食の匂いと、エマの声だけがあった。


「アイザワの妹は、どんなやつだった?」


 すぐには答えられなかった。

 ナミを説明する言葉が、多すぎた。

 そして、どれも足りなかった。


「……」


「わりぃ」


 エマは、珍しく少しだけ声を落とした。


「ビックリの最中に聞いちゃダメか」


 その言い方が、また奇妙に正確だった。

 悲しみの最中ではない。

 喪失の最中でもない。

 ビックリの最中。

 人が急にいなくなったことを、まだ現実として処理できていない状態。


 多分、俺はまだそこにいる。


「ワガママだったよ」


 自分でも、意外な言葉が出た。

 エマが目を丸くする。


「アイザワの妹が!? 意外だな」


「かなりね。あれも嫌。これも嫌。ばっかりだった」


「そんなワガママだったら、ガールフレンド作るのも大変じゃん」


 エマはすぐに食いついた。


「オレもアニキにガールフレンド出来て、遊んでくれない時は超絶ワガママ言ったことあっけどさ。アイザワとかモテそうじゃん」


 その言葉で、記憶の底に沈んでいた声が浮かんだ。


 昼休み。

 体育倉庫の横。

 少し湿った校舎裏の空気。

 白線の粉っぽい匂い。

 遠くから聞こえるボールの音。


『今日、お昼休みに体育倉庫の横で告白されてたよね? なんて言って断ったの?』


『なんで断ることが前提なんだよ……普通に忙しいからって言ったけど』


『優華ちゃんも相手が悪いね! こんな超絶可愛いナミちゃん相手に勝てるわけないじゃん』


『……ハァ……相手に嫌がらせだけはするなよ』


『うぇっ、バレてる……はぁーい。でも二回目は許さないよ』


 ナミの声。

 得意げで、勝手で、あまりにも当然のように俺の隣にいた声。

 思い出すと、胸の奥が痛む。


 だが、格納庫で見た映像とは違った。

 これは、まだ人間の輪郭を持った痛みだった。


「……勉強や妹の相手で忙しかったから、いなかったな」


「えー! 超いいアニキじゃん!」


 エマはあっさり笑った。

 その笑い方に、悪意はなかった。


 ナミが、少しずつ戻ってくる。

 解体されていく映像ではなく。

 骨壺の中の誰かでもなく。


 わがままで。

 面倒で。

 当然のように俺の生活を占領していた妹として。


 その輪郭が、ほんの少しだけ戻ってくる。

 同時に、目の前の食事は冷えていく一方だった。

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