1.数多の線
好奇。
悪意。
尊敬。
恐怖。
模擬戦の場を後にする俺の背中には、そういう種類の視線が、幾重にも突き刺さっていた。
誰も、正面から声をかけてはこない。
だが、視線だけは雄弁だった。
十四歳の少年を見る目ではない。
戦力、研究対象、交渉材料。
あるいは、制御不能な異物。
そのどれかに分類しようとして、まだ結論を出せずにいる目だった。
俺は振り返らなかった。
背中に刺さる視線の温度を、ただ受け流しながら歩いた。
廊下の白い照明が眩しい。
空調の風が汗の残る首筋を撫でる。
足元の床は硬く、踏むたびに乾いた音が返ってきた。
部屋へ戻ると、まずシャワーを浴びる。
熱い湯が肩を打つ。
髪から、首筋から、背中から、汗と機械の匂いが流れていく。
けれど、洗い流せるのは皮膚の表面だけだった。
レバーを握り込んだ掌の強張り。
ペダルを踏み続けた足裏の重さ。
晒され続けた皮膚の違和感。
それらは、湯を浴びてもまだ残っている。
身体を拭き、服を着替え、ふと時計を見た。
午前五時。
その時刻を認識した瞬間、急に疲労が重さを持った。
国際組織との訓練。
各国との調整。
時差。
トリックスターの映像。
模擬戦。
勝利。
その全部が、一日の中に詰め込まれていた。
さすがに、限界だった。
ベッドへ横になる。
シーツは冷たかった。
背中を預けると、身体の熱がゆっくり布へ吸われていく。
俺は左手を持ち上げる。
左薬指を、力を込めすぎないように握った。
痛みがある。
その痛みだけが、まだ俺を現実へ繋いでいる。
「……寝る」
誰に言ったのか分からない言葉だった。
けれど、返事はあった。
『おやすみ』
ナミの声だった。
柔らかくて、近い声。
ナミは、しょっちゅう夜に騒いでいた。
『暗くって怖い!』
そう言って、俺の布団へ潜り込んでくる。
大抵は、怖いと言った本人がすぐに寝た。
俺の横で、安心しきった呼吸をして、髪を頬にかけて、寝返りを打つたびに布団を奪っていく。
それでも、たまに俺の方が先に意識を落とす夜があった。
その時、ナミは決まって同じ声で言った。
『おやすみ』
まどろみの淵で、またそれを聞けた。
それだけで、もうよかった。
そう思ったところで、意識が沈んだ。
次に聞こえたのは、またしても扉の向こうの騒音だった。
遠くで何かが言い争っている。
靴音。
制止する声。
それを無視して前へ出ようとする声。
視界の端に映る時計は、十二時を示していた。
七時間ほどは眠ったらしい。
身体を起こすと、頭の奥に鈍い重さが残っていた。
口の中は乾いている。
瞼も少し重い。
それでも、昨日のような吐き気はない。
身支度を整えながら耳を澄ませると、騒音の主はすぐに分かった。
エマだ。
『賭けをしねぇ? オレが勝ったら、オレと昼メシを一緒に食べようよ』
昨日の声が頭の中で再生される。
現在時刻。
声の主。
騒ぎ方。
内容は、すぐに察せられた。
俺も、エマに聞きたいことがある。
インターフォンへ向かい、声をかける。
「エマさんですか?」
外の騒ぎが一瞬止まった。
「それなら約束もありますし、どうぞ。そちらの警護の方一名と一緒に中へお入りください」
数秒後、扉が開いた。
「わかってんじゃーん」
開くのと同時に、エマが無遠慮に入ってくる。
昨日と同じだ。
遠慮という概念を、どこかに置いてきたような歩き方。
短いツインテールが跳ね、足音だけが妙に軽い。
後ろから、エマ付きの女性警護員が入ってきた。
続いて、佐々木も入室する。
二人とも、目の下にひどい隈があった。
化粧や表情で隠しきれない疲労。
各国が集まる場だ。寝る間など、ほとんどなかったのだろう。
それには触れなかった。
触れたところで、休めるわけではない。
エマは二度目の部屋だというのに、また室内をきょろきょろ見回していた。
視線の動きが忙しい。
ただの好奇心にも見える。
だが、この少女は多分、見たものをかなり正確に記憶する。
俺は椅子を引いた。
「こちらへどうぞ」
「わーお。紳士だな」
エマは笑いながら腰を下ろした。
その動作も軽い。
けれど、椅子に座った瞬間、視線だけは真っ直ぐこちらに向いた。
食事が運ばれてくる。
簡素な昼食だった。
湯気の立つスープ。
焼き目のついた鶏肉。
温野菜の青い匂い。
柔らかく炊かれた穀物の、淡い甘さ。
それらが、無機質な個室の空気を少しだけ人間の生活へ戻した。
スプーンを手に取る前に、エマが口を開いた。
「前から気になってたんだけど」
前置きは軽い。
だが、視線は逸れない。
「あれって、骨が入ってるやつ?」
佐々木の指が、わずかに動いた。
警護員も、息を止めたように黙る。
この少女は、本当に直線的だ。
他人が避ける場所に、迷わず足を踏み込んでくる。
悪意があるのか。
無神経なのか。
それとも、最短距離で必要な情報に触れようとしているだけなのか。
まだ判断はつかない。
俺は左薬指を、無意識に握っていた。




