2.五十嵐 “亜美”
二週間のリハビリは、正直に言って退屈だった。
思考は正常で、記憶も明瞭なままだ。身体こそ削げ落ちて細っていたが、十四歳の回復力をなめてはいけない。
車椅子から始まり、平行棒、軽い走行訓練と、段階を踏んでいく。最終的には屋上の非常階段を一気に駆け上がり、着地の瞬間でさえ、心拍はほとんど乱れていなかった。
「戦闘訓練ではないので控えてください」と佐々木に釘を刺されたのは、その翌日だ。
佐々木はいかなる反応も見せず、ただ経過を記録しながら、必要な情報だけを淡々と伝え続けていた。
ある日、俺がランニングを終えたところで、彼女は一枚のタブレットを手にこう切り出した。
「本施設には、政府が戦略的保護対象と認定した青少年が数名、疎開のかたちで配置されております。いずれも、我が国が“将来の知的戦力”として極めて高く評価している人物です」
その声に感情の起伏はない。
しかし、言葉の端々に“選ばれた者”という響きが、かすかに滲んでいた。
「相澤様にも、今後連携していただく可能性がございます。本日、ひとりの人物と面会の機会を設けております。――準備は、よろしいでしょうか」
俺は軽く頷いた。
この国の中枢が子供すら戦力として動かすつもりなら、その思惑ごと利用すればいい。
指定された扉を開けた瞬間、冷ややかな空気と、淡いアルコールの匂いが肌を撫でた。青白い照明が天井から落ち、室内の影を曖昧に染めている。
温度管理された棚には、透明な培養フラスコと琥珀色の液体が並び、中央の卓上には顕微鏡が据えられていた。その横には記録用らしい分厚いノートが置かれ、ページの端がわずかに折れて、使い込まれた跡を残している。
湿度は低く、音はほとんどない。ただ、紙を擦るペン先の音だけが、薄く空気を削っていた。無機質でありながら、何かが静かに呼吸しているような生の気配が、この空間には満ちている。
生物という言葉が、単なる学問では終わらない場所なのだと、肌で理解した。
そんな部屋の奥で、ひとりの少女が立ったまま、身じろぎもせずペンを走らせていた。
やがて、こちらの気配に気づいたのか、わずかに首を傾けて顔を上げる。
肩にやっと届くほどの長さで切り揃えられた髪は、光を受けると青みを帯びて揺れた。瞳は透き通った紫紺で、静かな湖面を思わせる色をしている。
眼鏡の奥で、その目はじっとこちらの動きを捉えていた。
肌は我が国らしい黄みを含んだ色合いだが、人工照明に慣れすぎたのか、どこか薄く儚げな白さが混じっている。
“学生”と言い切るには、どこか釣り合わない。立ち姿にはためらいがあるのに、無意識のうちに、その場の空気の輪郭を制御しているようにも見えた。曖昧なままで、それでいて違和感だけが、やけに後を引く。
少女は俺に気づくと小さく身じろぎし、何かを言おうとして喉を詰まらせた。前髪を触る指は落ち着かず、視線は一度もこちらを正面から捉えない。まるで足元に言葉を探しているような仕草だ。
それでも、意を決したように口を開いた。
「えっと……は、初めまして。五十嵐 亜美です……。
いま、十七歳で……国内の、生物科学系の研究機関に、特別研究生……として所属して……います」
その名を聞いた瞬間、心の奥で、古い音が鳴った。
――亜美。
ナミという音に、よく似ている。ただそれだけのはずなのに、胸の奥がきしんだ。
“あみ”という音が、封じていた記憶の底に沈んだナミの名を揺らがせた。
柔らかく、どこか幼く響く音感が、思考の輪郭を歪ませる。
抑えていたはずの感情が、名前の音だけでひび割れを広げていく。
俺の中に残っていた時間が、一瞬だけ逆流しかける。
だが、すぐに思考が巻き戻った。
感情は燃え上がらず、底へ沈殿していく。冷たい演算が、意識の奥で静かに再起動を始めていた。
目の前にいるのは妹ではない。偶然、似た音を持っていただけの他人だ。それ以上でも、それ以下でもない。
俺が思考の渦に呑まれていたせいで返事が遅れ、彼女はおどおどと視線を泳がせている。人前の会話に慣れていないのは、明らかだった。
それでも、たどたどしい口調に反して、語られる中身は驚くほど正確で、そして深い。
「……ゲノムとか、遺伝子編集技術の実用研究とか……あとは、高緯度地域の山岳施設とか、極夜期の観測拠点とかで、短期間だけですけど……その、フィールドに入ったこともあります」
彼女は、自分の価値をまだ正確には理解していないのだろう。知識を積み上げ、それを差し出し、役に立つことを信じている。だからこそ、守られる側ではなく、狙われる側に置かれている。
だが、それがちょうどいい。
妹を奪ったあの日、首都湾へ降下したTARAK-X。暴力の構造そのものとして世界に顕れた、破壊の存在。
あれを超えるには、ただの天才では足りない。論理の先にある“別の回路”が要る。
――彼女は、それを持っている。
だから、利用する。名前の音感がナミに似ていようが、関係ない。俺にはもう、戻れる過去などないのだから。必要なのは、破壊を超える理と、未来を捩じ曲げるための知性だけだ。
それでも。
その声の温度だけは、ごくわずかに変えることができた。
「説明は受けていると思いますが、改めまして。
俺の名前は相澤ナギです。わざわざ時間を割いてくれてありがとうございます。……貴方の研究履歴、簡単に目を通させて頂きました。どれも、興味深かったです」
少しだけ表情を和らげ、目線を合わせる。
「こうして直接話せる機会があるなら、俺も聞きたいことが山のようにあるんです。……とりあえず、そこの椅子に座ってから始めませんか」
人慣れしていない少女は、頬を薄く赤らめ、首を上下に激しく動かした。
ただ、最適解を選んだだけだ。
それがどれほど残酷なことか、俺は理解している。




