9.偽りの前哨
視界が暗転した。
耳の奥で、ノイズが走る。
それは一秒にも満たない時間だったはずなのに、目を閉じたまま水の底へ沈められたような圧迫感があった。
頭部を包むVRゴーグルの内側は微かに熱を帯び、鼻先には機械樹脂の匂いがこもっている。
次に目を開けた時、そこには街があった。
十階建てほどのビルが、一定の間隔を置いて点在している。
大都会というほど密度はない。だが、田舎とも言い切れない。広い道路。無人の歩道。白く乾いた空。遠くには、簡略化された高架のような構造物も見えた。
風の痕跡は見受けられず、現状、匂いも感じられない。
視界は鮮明だった。
光の反射も、建物の影も、路面の細かな凹凸も作られている。ジョンソン総司令が言っていた通り、この数日で投入できる映像技術を、可能な限り注ぎ込んだのだろう。
こんな非常時でなければ、絶対に成立しない速度の成果物だ。
それは理解できる。
理解できるが――やはり、映像だった。
トリックスターの視界とは違う。
あれは「見る」というより、世界そのものを掴まされる感覚に近い。
距離も、熱も、振動も、空間の歪み全てが情報として身体に入り込んでくる。
対して、これはあくまで目の前に置かれた絵だ。
綺麗で、精密で、よくできている。
だからこそ、どこまでも作り物だと分かる。
『マイクテスト、マイクテスト。聞こえたら応答願います』
左右の耳から、技術員の声が聞こえた。
外部からの音声だ。
距離感はない。耳元に直接置かれたような音だった。
「鮮明に聞き取れます。同じくマイクテスト、マイクテスト。確認をお願いします」
『マイク、ヘッドホン共に問題なし』
技術員の声は少しだけ硬い。
緊張しているのか。
それとも、単に俺の反応を全て記録しているからか。
『これから無風状態で、静止した的を出します。まずは左右の腕を使い、銃で撃ち抜いてください』
「了解しました」
返答した直後、数十メートル先に的が出現した。
ダーツの的に似ている。
白い街並みの中で、その円だけが不自然なほど分かりやすく浮かんでいた。
俺は右手のレバーを軽く動かす。
視界の中で、機体の腕がそれに追従した。
遅延はほとんど感じられない。
レバーの冷たい感触が掌に沈み、親指の下にあるボタンの位置を確認する。足裏では、ペダルが靴底越しに硬く待っていた。
操作に問題はない。
左の親指で、銃を呼び出す。
視界の中の機体が、何もない空間から銃を握った。
出現の瞬間、重心が少し左へ傾く。
仮想空間であっても、そこは再現されているらしい。
銃を構え、照準を合わせる。
引き金を引く。
パンッ、と乾いた音が鳴った。
的の中心が撃ち抜かれる。
反動は軽い。
音も、衝撃も、よく調整された疑似感覚だ。
『次』
新しい的が出る。
パンッ。
『次』
パンッ。
視界の端で、命中判定を示す数字が淡く点滅する。
十体ほど撃ち抜いたところで、技術員の声が入った。
『次は的が動きます。無風状態は継続します』
「了解」
的が横へ滑る。
速度は遅い。
ただの移動標的だ。
パンッ。
中心。
次。
パンッ。
中心。
銃声だけが、無人の街に乾いて響く。
ビルの壁に反響する音も再現されている。だが、空気が震える感覚は薄い。音はあるのに、皮膚まで届かない。
その人工的な軽さが、逆に神経を冷静にしてくれた。
『九時方向から風速3m/sを追加』
「照準、左へ0.4補正」
言いながら、視線を動かす。
的が増える。
角度と距離、速度に銃口のブレ。そして反動。
計算は単純だった。
パンッ。
パンッ。
パンッ。
全て中心。
数秒だけ、通信の向こうが静かになる。
『……全弾命中』
技術員の声に、わずかな温度が混ざった。
驚き。
あるいは、納得。
どちらでもいい。
『次は回避・近接操作の確認です。
敵性モデルは攻撃の予備動作のみ行います。足を含めた操縦に慣れることが目的です』
「はい」
その返答の直後、目の前に影が出現した。
TARAK-X。
ただし、粗い。
ポリゴンの角が見える。輪郭は荒く、質感も薄い。あの生理的な異物感は再現しきれていない。
それでも、胃が反応した。
喉の奥に、酸が上がってくる感覚。
さっき磨いた歯のミントの刺激と、胃液の苦味が混ざる。舌の根が強張り、唾液が増えた。
作り物だ。
これは作り物だ。
そう理解しても、身体は別の記憶を参照している。
俺は、意識的に息を吐く。
視線を固定する。
今見るべきものは、目の前の個体だけだ。
足先でペダルを踏む。
機体が前へ出る。
重い。
トリックスター本機のような、思考と動作が一体化する感覚はない。こちらは、明確に命令してから動く。
だが、動く。なら十分だ。
右手の親指でボタンを押す。
大剣が出現した。
握った瞬間、今度は右側へ重心が傾く。
それをレバーで抑え、踏み込みと同時に腕を振る。
刃が、粗いTARAK-Xの胴を斜めに裂いた。
軽すぎる感触だ。
肉を断つ感触も、装甲を砕く抵抗もない。
ただ、映像が切断され、破片のような光が散る。
しかし、こみ上げてくる不快感だけは、先ほどの映像に直結して異様なまでに重い。
それでも、倒れた。
『次、出します』
二体目。
俺の不快感に付き合っている猶予はない。
今度は右側から。
足先を踏み、斜め前へ出る。
腕の可動域と剣の長さ。
踏み込みの距離。
処理する情報が増える。
だが、追える。
ならば、切る。
三体目。
少しだけ動きが速い。
相手が攻撃の姿勢を見せる。
俺は踵側を踏み、機体を後退させた。
距離が空く。
次の瞬間、前進。
右腕を振りあげての斬撃。
仮想TARAK-Xはあっけなく崩れる。
呼吸が少し乱れていた。
身体を動かしているわけではない。座席に固定され、四肢でレバーとペダルを操作しているだけだ。
それでも、首筋に薄く汗が滲んでいた。
VRゴーグルの内側が熱い。
レバーを握る掌も湿っている。
喉の奥には、まだ吐き気の名残があった。
だが、手は止まらなかった。
画面の向こうで、三体目の残骸が消えたところで通信が入る。
『操作適性、問題なし』
そこで一拍置いて、技術員が告げた。
『では、実戦形式に移ります』
無人の街が、少しだけ暗くなった気がした。
風は一度途切れた。
匂いもない。
それでも俺は、戦場に入る前の空気を感じていた。




