7.勝敗の行方
格納庫を出てすぐ、佐々木にシャワー室へ案内された。
白い扉。白い壁。白い照明。
その全部が、さっきまで見ていた映像の白さと重なって、視界の奥で薄くちらつく。
吐瀉物の酸っぱい匂いが、まだ鼻の奥に残っていた。
喉の粘膜は焼けたように熱く、舌には苦味が張りついている。
左薬指を握り込んだ痛みだけが、妙に鮮明だった。
「こちらをお使いください」
佐々木の声は、いつも通り平坦だった。
けれど、その平坦さが、今はありがたい。
事務的な声だけが、かろうじて俺を現実の手順に繋ぎ止めていた。
シャワーの湯を出し、その間に歯を磨く。
最初は冷たかった水が、数秒遅れて温度を持つ。肩に当たった瞬間、皮膚が強張った。
湯が髪を濡らし、首筋を伝い、背中へ落ちていく。
ミントの強い刺激が舌を刺す。口の中は清潔になったはずなのに、吐いた後の苦味は完全には消えなかった。
金属と冷却材の匂いが洗い流される。胃液の匂いも、喉に残る不快感も、表面だけは消えていく。
だが、清潔になればなるほど、脳の内側に残った映像だけが濃くなった。
ナミ。
ナミだったもの。
解体されていく記録。
水音が強くなるほど、あの無音の映像が蘇る。
目を閉じれば、赤が浮かぶ。
目を開ければ、排水口へ流れていく透明な湯が見える。
その差が、ひどく気持ち悪かった。
身体を拭き、用意されていた服へ袖を通す。
布は柔らかく、肌に触れる感触は不快ではない。
それなのに、自分の身体だけが、一拍遅れて動いているようだった。思考も、感覚も、どこか薄い膜の向こう側にある。
呼吸を一度だけ整える。整ったかどうかは分からないまま、俺は扉を開けた。
外には佐々木がいた。
そして、警護要員の他に、もう二人。
研究室統括の深見。
VELUCT佐久支部長、古川。
古川は、俺を見るなり軽く片手を上げた。
「やぁ。ナギ君なら、我々がいる意味、分かるだろう?」
分かっている。もう模擬戦が始まるのだろう。
俺の体調確認と移動管理。
そして、それを観測するための立会い。
胃の奥には、まだ鈍い不快感が残っていた。
空腹でも痛みでもない。身体が、さっき見たものをまだ拒否しているだけだ。
「はい」
短く答える。
それ以上、言葉を足す必要はなかった。
俺の目的は、TARAK-Xの殲滅だ。
トリックスターが何を見せたとしても。
俺の神経がどれだけ乱れたとしても。
それで、目的に支障をきたすわけにはいかない。
通路を歩き始める。
床を踏む音が、規則正しく反響する。空調の風は乾いていて、ドライヤーの熱が残る髪から少しずつ温度を奪っていった。
壁際には一定間隔で警備要員が立っている。
無線の小さなノイズ。装備の擦れる音。遠くで開閉する自動扉の低い駆動音。
人間の数が増えている。
機械の匂いより、布と革と火薬に近い匂いが濃くなっていく。
「相澤君」
隣から深見の声がした。
俺は視線だけを向ける。
「トリックスターの映像を見たよ」
深見は歩幅を変えず、淡々と続けた。
「あえて研究者としての言葉を送らせてほしい。多大なデータが集まった。ありがとう」
彼が前置きした通り、一般的には酷いと称される言葉なのだろう。
だが、間違った言葉ではなかった。
あの映像には、情報があった。
トリックスターの記録能力。
排出動作。戦闘ログ。ナミの解体過程。
TARAK-X、あるいはその周辺に関する未知の断片。
研究者なら、見て解析する。
そこに価値を見出す。
理解ができる。
「同じ研究に身を寄せる者として、理解できます」
そう答えると、深見はわずかに目を伏せた。
「研究者だからこそ言えることもある」
声の温度が、少しだけ変わった。
「十四歳の少年に背負わせるストレスではないことも、確かだ。
佐々木さんには精神科医の手配も頼んだ。最悪、誰でもいい。限界を迎える前に助けを求めてくれ」
そこで、深見は言葉を切った。
白い照明の下で、その顔は少し疲れて見えた。
「……これも難しい話だな。すまない。あまり対人コミュニケーションは得意ではないんだ」
不器用な言葉だった。
慰めとしては、かなり下手だ。
だが、誤魔化しではなかった。
だから俺も、あえて本音に近いものを返した。
「全てが想定の外です」
声に感情を乗せすぎないようにする。
「ただ、気持ちだけは伝わりました」
深見は一瞬だけ目を見開いたあと、少し困ったように頷いた。
「そうか」
それだけだった。
そこへ、古川が軽い調子で割り込んできた。
「研究者ってのは、研究者同士の方が会話が弾むものなのかな?」
肩をすくめる。
「ナギ君のそんな受け答えを、僕はまだ見られていないよ」
「必要な場面があれば、します」
「手厳しいな」
古川は薄く笑った。
その笑い方は軽い。
軽いが、場を壊さない程度に計算されている。
この人間は、深刻な空気を処理するのが上手い。真剣さを消すのではなく、重さだけを少しだけ逃がす。
それもまた、組織を動かす人間の技能なのだろう。
「ま、そんなことよりさ」
古川は前方へ視線を向けた。
「もう着くよ。VR空間で仮想モデルを使った模擬戦が始まる」
眼前に、大扉が見え始める。
近づくにつれ、警備がさらに厚くなった。
各国から集まった関係者の視線。
認証端末の電子音。
扉の向こうから漏れてくる低い機械音。
空気そのものが、少しずつ硬くなっていく。
「正直、ナギ君の勝敗は、今回の仮想量産型モデルでの対戦では大した価値はないからね」
古川が言った。
「勝敗なんか気にせず、適当にやっちゃってよ」
適当に。
その言葉は、奇妙なほど軽かった。
だが、意味は分かる。
俺が乗っているのは、通常の機体ではない。
トリックスター本機。
ズルの機体。
あれを前提に成立している俺の戦闘能力を、仮想量産型モデルで測っても、実際の戦闘には大きな意味がない。
重要なのは、俺がどこを見るか。
どう判断するか。
どう壊すか。
それを観測すること。
そこまで考えたところで、古川は俺の肩を軽く叩いた。
掌の重さは一瞬だけだったが、妙に現実的な温度があった。
「気楽にいこう」
そう言って、古川は認証端末へ手をかざすと、軽い電子音が鳴る。
ロックが解除され、重い扉がゆっくりと開いた。
冷たい光が、内側から流れ出してくる。
俺はその光の向こうを見た。
吐き気はまだ残っている。
喉の奥には、消えきらない苦味がある。
左薬指は痛む。
それでも、足は止めなかった。
ここで立ち止まれば、さっき見た映像に負けたことになる。
だから俺は、模擬戦の部屋へ入った。




