6.不協和音
嵐が去った後の部屋には、しばらく余韻だけが残っていた。
扉は閉まっている。
それでも、あの少女が持ち込んだ明るさと騒がしさだけは、まだ壁や床に薄く貼りついているようだった。
消毒液の匂い。空調の乾いた風。ベッドのシーツが擦れる音。
そのどれもが、さっきまでより妙に近く感じる。
亜美は、
「頑張って」
と、短い言葉を残して部屋を出て行った。
余計な励ましも、不安の押しつけもない。
ただ、俺がこの後に向かうものを理解しようとして、理解しきれないまま、それでも置いていった言葉だった。
足音が遠ざかる。
俺は、その音が完全に消えるまで、しばらく動かなかった。
思い出していた。
〔オワッタラ、カエッテキテネ。ゼッタイ、ダヨ〕
あの声。
無邪気で、白々しいトリックスターの声。
あれは、帰ってこいと言った。
「佐々木」
「はい」
「格納庫に行く」
佐々木は即答しなかった。
その沈黙の長さだけで、返ってくる内容はある程度分かった。
「この後に模擬戦が控えています。可能であれば、休息をおすすめします」
正論だった。
俺の体調を考えれば、その判断は正しい。
そして同時に、暗に自分も休ませろと言っているのだと分かった。
エマの対応。
俺の護衛。
模擬戦の調整。
佐々木も、疲れていないはずがなかった。
「連れて行け」
それでも、俺は言った。
佐々木は目を伏せる。
最低限の電子音しかない部屋では、溜息ひとつの輪郭まではっきり聞こえた。
「……承りました」
その声にも、疲労のような鈍さが混ざっていた。
格納庫へ向かう通路は、個室よりもさらに冷えていた。
床材の硬さが足裏に伝わる。
白い照明は均一で、影を作らない。人間の感情を削るために設計されたみたいな明るさだった。
遠くから、機材の低い唸りが聞こえる。
油脂と金属と、微かに焼けた埃の匂い。
病室の消毒液とは違う。
ここは治す場所ではない。
壊すものを保管し、壊すための準備をする場所だった。
格納庫に入った瞬間、空気の密度が変わる。
視界の奥に、巨大な影があった。
トリックスター。
こちらを待っていたみたいに、機体表面の一部が淡く明滅する。
〔オカエリッ!〕
明るい声が、格納庫に響いた。
その瞬間、周囲の研究員達が一斉に動く。
端末を叩く音。
カメラの角度を調整する音。
誰かが短く指示を飛ばす声。
俺とトリックスターの会話そのものが、研究対象になっている。
「帰ってくるという約束は果たした」
俺はトリックスターを見上げる。
「何か、TARAK-X、もしくは“お前達”に関する情報を寄越せ」
半ば命令だった。
お願いではない。
交渉でもない。
俺はもう、この機体に対してだけは、綺麗な言葉を選ぶ気になれなかった。
〔ワカンナイ!〕
即答だった。
あまりにも軽い。
あまりにも白々しい。
けれど、その答え自体は想定していた。
トリックスターは、知らないと言う。
分からないと言う。
知っているはずのことも、知らないふりをする。
その境界線がどこにあるのかを、俺はまだ掴めていない。
「これは地続きの質問だ。回答は拒否するな」
声が冷えていくのが、自分でも分かった。
「“お前達”という言葉の意味は分かるだろ」
トリックスターの光が、一瞬だけ揺れたように見えた。
〔ン……?〕
幼い声が、考え込むように間延びする。
〔フワフワッテ ノ トキニ ナニカ イタカモ?〕
ふわふわ。
宇宙からの降下時か。
VELUCT中央監視センターからは、トリックスター四機の降下は同時だったと報告が上がっている。
量産型。
あるいは、トリックスターと同系列の何か。
「それ以降の記憶はあるのか?」
そう聞いた瞬間、トリックスターの反応が変わった。
明滅が強くなる。
まるで褒められる前の子供みたいに、はしゃいだ気配が格納庫全体へ広がった。
〔ゼンブ!〕
声が弾む。
〔ミテミテ ナギガ タタカッテルヨ〕
次の瞬間、空間が光で埋まった。
百近いスクリーンが、一斉に展開される。
格納庫の壁面、空中投影、端末群。
至るところに、映像が浮かび上がった。
第二群体との戦闘。
TARAK-Xの異様な輪郭。
俺の機体が逃げ、かわし、反撃する軌跡。
研究員達の息を呑む音が聞こえた。
直後、「記録しろ!」「媒体は何でもいい!」と、周囲が騒然とし始める。
俺は、止まった。
スクリーンのひとつに、見覚えのあるものが映っていた。
ナミ。
ナミだったもの。
解体され、その奥からナミが露呈していく映像。
時間が、音を失った。
機械音も、研究員達の声も、佐々木の気配も、全部が遠くへ引き剥がされる。
視界だけが、異様に鮮明だった。
白。
赤。
金属の光。
それが何を意味するのか、理解するより先に、体が拒絶した。
「――っ」
喉の奥が焼ける。
胃がひっくり返る。
俺は床に手をつく間もなく、そのまま吐いた。
酸っぱい匂いが、金属と油脂の匂いに混ざる。
膝が震える。
薬指を握り込む。
痛みが走った。
それでも離さない。
痛みがなければ、俺は今、自分がどこにいるのかも分からなくなりそうだった。
視界の端で、別の映像が流れている。
解体作業の後。
意識を失った俺が、重力が軽くなったかのように、ゆっくりとトリックスターから排出されていた。
どうやってあそこから出たのか、不明だったが、やはりトリックスターが意図的に出したのだろう。
その推測だけは、妙に冷静に浮かんだ。
〔……!…………〕
〔……、………………!〕
〔…………〕
意味の形を取る前に、音だけが滑っていく。
何か声が聞こえる。
はしゃいでいる。
無邪気に。
残酷に。
あるいは、残酷という概念すら持たずに。
俺は顔を上げなかった。
上げれば、また見ることになる。
ナミが壊されていく映像を。
俺が知らなかった時間を。
俺が守れなかった事実を。
「……戻る」
誰に向けた言葉だったのか、自分でも分からない。
佐々木が何か言った気がした。
研究員達の視線が突き刺さっているのも分かった。
けれど、俺はそれ以上、格納庫に居られなかった。
足元はまだ不安定だった。
喉には吐瀉物の味が残っている。
左薬指の痛みだけを握り潰しながら、俺はトリックスターに背を向けた。
背後で、まだ声がしていた。
〔……?〕
〔…… ………………?〕
〔ナギ〕
振り返らなかった。
帰ってこいと言ったのは、お前だ。
帰ってきた結果、見せたのがこれなら。
次に俺が何を聞くべきかは、もう少しだけ考えなければならない。
そう思わなければ、正気でいられなかった。




