2.静かな食卓
控えめな音が、眠りの縁を叩いた。
コン、コン。
ドアの向こうから、遠慮がちに響くノック音。
反射的に天井を見上げ、次に端末へ視線を落とす。
表示された時刻は十九時。
補給物資の時間だ。
ベッドから起き上がり、備え付けてある洗面台の鏡の前で軽く身だしなみを整え、左手の感覚を一度だけ確かめる。
前回の投薬から既定の間隔があいていたため、そのまま右手で雑に口へ水を含み、痛み止めを流し込む。
人前に出られる状態を整え、扉へ向かって開錠する。
廊下に立っていたのは、亜美だった。
両手には二人分の食事が載ったトレー。
その背後には数名の警護要員が間隔を取って控えている。
研究者というより、今日は「来客」の立ち位置らしい。
「こんばんは、ナギ」
軽く会釈してから、亜美は少しだけ言葉を選ぶように間を置いた。
「……ごはん、一緒に食べてもいいかな?」
断られる可能性を前提にした声色。
だが、その視線は逃げていない。これは彼女なりの「配慮」という名の接近なのだろう。
俺は一拍だけ考え、短く頷いた。
「ああ」
それだけで十分だったらしく、亜美はほっと息をつく。
警護の者たちは室内に入らず、廊下で待機する形を取った。
ドアが閉まると、部屋は再び静けさを取り戻す。
亜美を机の前へ促そうとして、俺はふと手を止めた。
机の中央には、白い骨壺が置かれている。
俺の判断は早かった。
骨壺を持ち上げ、ベッドの脇へ移動させる。
雑には扱わないが、特別に慎重というわけでもない。
陶器の冷たさだけが、少しだけ意識に残った。
一連の行動の最中、背中に視線を感じた。
しかし、振り返らない。
説明もしない。
それでも亜美は何も言わなかった。
ただ、その視線の温度だけが、確かにそこにあった。
移動を終えると、食事を机に並べる。
向かい合って腰を下ろし、小さく「いただきます」と声を重ねた。
「このタルタルソース、美味しいね」
亜美が何気なく言う。
「そうか」
「うん。昨日はね、カレーだったんだよ」
他愛のないやり取り。
食の話題は、誰にとっても安全だ。
食事は静かに進み、無理に会話をつなぐこともなく終わった。
トレーを片付け終えたところで、亜美がふと俺の左手を見る。
「……左手、大丈夫?」
「頑丈に治療してもらったんだ。痛み止めも効いてるし、問題ないよ」
安心させるように意図して声色を柔らかくする。
亜美は「そっか」と小さく頷き、それから少し考えるように視線を伏せた。
数秒の沈黙。
「……ナミちゃん、だよね」
骨壺に、そっと目線を向けたまま言う。
「妹さんの名前」
「ああ」
それ以上は付け足さない。
亜美は一瞬だけ俺の表情を窺い、それから控えめに続けた。
「……手、合わせてもいいかな?」
許可を求める言い方。
踏み込む前に、必ず線を引く人間の声だ。
「ありがとう。ぜひ」
そう答えると、亜美は小さく礼をして、ベッドの脇へ移動した。
骨壺の前で膝を揃え、静かに手を合わせる。
目を伏せ、言葉は発さない。
部屋に、換気ファンの微かな音だけが残る。
空気が動くたび、何も言わない沈黙が保たれていた。
時間の長さは測らなかった。
やがて亜美は、ぱっと顔を上げた。
「……よし!」
勢いよく振り返り、こちらを見る。
さっきまでの静けさが嘘のような切り替え。
だが、不自然ではない。
それが五十嵐亜美という人間の呼吸なのだろう。
俺は何も言わず、彼女から紡がれる次の言葉を待っていた。




