8.四者四様の温度
格納庫には、まだざわめきが残っていた。
トリックスターの発言が場の温度を変え、研究員たちは落ち着きを失っている。
淡々と画面に向き合う者もいれば、未知の現象に対応できず、端末の前で頭を抱え込む者もいた。
その混乱を切り裂くように――
「ナギッ!」
少女の声が響いた。
振り向くまでもなく、その音だけで誰かわかった。
五十嵐亜美。
以前、研究室で風を受けて靡いていた髪は乱れておらず、目立った外傷もない。
皮膚の色も、呼吸も、歩き方も正常。
“生きている”と判断するには十分だった。
だが、胸の奥には何も湧かない。
以前のような焦りも、安堵もない。
(……でも)
――何もできなかった。という事実。
第二群体の襲撃のとき、亜美を救えなかった。
救うという行動すら取れなかった。
その一点だけが、胸の奥底に沈殿している。
それを意図的に引き上げる。
演技でも、都合でもいい。
彼女の目を見た瞬間、ほんの一瞬だけ“安堵”の表情を作る。
そして、気まずさを装うように視線を伏せた。
亜美は数歩近づき、立ち止まる。
逡巡の気配が足取りに出ていた。
笑おうとしたのだろう。
だが、口元だけが先に動き、目の奥にはまだ、あの夜の恐怖が残っていた。
「大丈夫。……ナギがTARAK-Xを倒してくれたから、私はここにいられるよ。
ありがとう」
優しい声だった。
温度も、震えも、嘘のない感謝。
俺の胸には、何も響かない。
ただ――必要な情報として受け取るだけ。
〔ネェネェ、トリックスターノ、ハナシ、シナイノー?〕
場の温度をぶち壊すように、トリックスターの声が割り込んだ。
不満を全身で表す、子どものような声音。
亜美が驚愕に目を見開く。
「……い、今の……?喋った……の?」
問いは空中で震え、答えは出ない。
俺はトリックスターが割り込んだ意図を即座に解析しようとした。
どの文脈で切り込めばこの場が崩れないか、計算が走る。
その瞬間――佐々木の端末が短く鳴った。
そのまま端末を耳に当て、数秒だけ事務的な声で応答する。
「……はい、承知しました。すぐに向かわせます」
端末を切り、こちらへ向き直った。
「申し訳ありません。トリックスターとの接触確認も重要ですが、各国の搭乗者を集めた会議が始まるとのことです。……そちらへお願いいたします」
佐々木の声が途切れた直後。
〔エー!?〕
とあからさまに拗ねた声が響き渡る。
しかしすぐに、
〔オワッタラ、カエッテキテネ。ゼッタイ、ダヨ〕
妙に含みのある声音で続けた。
研究員たちが一斉に顔を見合わせる。
誰もが理解している。
これはただの機械学習の声ではない。
「あぁ」
短く返し、佐々木の誘導に従って格納庫を後にした。
亜美も静かに後を追う。
通路に出て、扉が閉まる。
格納庫の喧騒が一瞬で隔てられた。
歩き出したところで亜美がため息とともに、ぽつりと呟いた。
「……あれ、本当に味方なのかな」
答えない。
胸の中には、ただ冷たい思考だけがあった。
(戦えるなら、利用できるなら、何でもいい)
それが、唯一の答えだ。




