7.英雄を騙る声
左薬指の脈動がまだ熱を帯びている。
その感覚だけを抱えたまま、俺は医療台を降りた。
「相澤様。まずは“トリックスター”の起動確認を行いたいとのことです」
佐々木が淡々と告げる。
表情に余計な色はない。軍人として、必要な任務を遂行しているだけの顔だ。
「……了解です」
声に揺れはなかった。
ただ歩くたびに、左薬指が微弱に脈を打つ。
数分の移動で曲がり角をいくつも抜け、隔壁を三枚通過すると――視界が一気に開ける。
格納庫だ。
そこには、あの異様な曲線を持つ巨体が静かに鎮座していた。
溶断跡も、焼け焦げた残滓もない。
むしろ“最初からここにあった”かのような質感で、無機の空間に溶け込んでいる。
トリックスター。
ただ佇むだけで、周囲の空気が歪む。
研究員たちは距離を取りつつも、どこか怯えたように視線を向けている。
「相澤様、再度確認します。……搭乗、可能でしょうか」
佐々木の声は慎重だった。
少しだけ考える。
だが、迷いはなかった。
「やります」
その言葉に、周囲の研究員がざわめいた。
恐怖、興奮、疑念……全てが混じったざわめきだ。
俺はトリックスターの前に立つ。
深呼吸は不要だった。
必要だったのは、ただ一つの問い。
「……俺のことは、覚えているか?」
静寂の格納庫に、短い問いが響く。
そして次の瞬間――
〔ヒサシブリー!〕
明るく、軽く、あまりにも無邪気な声が、格納庫全体に響いた。
その瞬間、格納庫が弾けるようにざわついた。
「……い、今のは!?」
「反応した? 意思疎通……?」
「ログは? 全部取れてるか!?」
「自律反応じゃない、明確な“対話”だ!」
研究員たちが半ばパニックのように走り回り、端末を操作し、互いに叫び合う。
中には恐怖で動けなくなる研究員もいた。
だが、トリックスターは完全に無言になった。
騒がしさなど意に介さず、ただ、こちらだけを向いているように見えた。
「トリックスター」
佐々木が一歩前に出る。
声は落ち着いていたが、緊張が指先に滲んでいる。
「あなたのことを知りたいのですが……ご教示いただけますか」
数秒の沈黙。
だが、返答は――なかった。
完全無視。
佐々木がわずかに息を詰める。
その反応を見て、ひとつの仮説に辿り着く。
(……こいつは、俺にしか反応しない)
ならば。
「教えてくれ。お前のことを」
短い問いを投げる。
トリックスターの外殻がわずかに震えるように見えた。
〔エー〕
拗ねたような声音。
格納庫にいる全員が固まる。
そして、
〔ショウガナイナー〕
子どもめいた、しかし温度の掴めない声。
研究員たちが全員、息を呑む。
〔トリックスターハ、ターラクス? ヲ、タオス、ヒーロー!〕
声は無邪気で、意味は浅く、しかし異様に重かった。
ゆっくりと目を細める。
ヒーロー。
その言葉だけは、ひどく薄く聞こえた。
俺の前で、あれだけ異常な知識と機能を見せた存在だ。
自分自身で「トリックスター」などという名前を、わざわざ名乗るとは思えない。
「お前は俺以外の声を認識できないのか?」
〔? ソンナコトナイヨ?〕
意図的に俺以外とコミュニケーションを取らないようにしているのか。
「ではヒーロー、トリックスターの“情報”はあればあるだけ助かる。
ここの人たちとコミュニケーションを取ってお前のデータを教えてくれないか」
トリックスターは、うっすらとした嫌悪感を声色に乗せて答える。
〔ツカレルヨォ〕
疲労。機構体なのにそんな概念があるのか。
これ以上、踏み込んで機嫌を損ねたくはない。
(……お前は、何なんだ)
答えを返す前に、思索の波が静かに満ちていく。
格納庫には、機械の低い駆動音だけが残った。
――相澤ナギ以外の全員が、息をすることすら忘れていた。




