5.左薬指
火葬場という言葉の意味は、いまの世界ではもう曖昧だ。
正式な装置は沈黙し、残されたのは屋外に並んだ粗末な焼却区画だけ。
炎の列が続く。
そのいくつもが同じ高さで揺れ、黒煙を上げている。
淡々と“死”を処理するためだけの場所。
俺はひとつの簡易区画に立ち、静かにナミの遺体を抱えていた。
世界で一番の煌めきを放つ宝石をこんな風に扱わざるを得ないことに対する罪悪感はある。
高校生になったナミは、大人になったナミはどんな輝きを放ったのだろう。
移動は容易だった。
ただでさえ軽い身体だ。
俗説でいう、21g。
魂の重さなど信じていないはずなのに、確かに何かが抜け落ちていた。
だが両腕に沈む重さは、質量では説明できない。
圧迫なのか、幻覚なのか、判断がつかないほどに沈んでいく。
焼却区画には半円状の土嚢が大量に並んでいる。
人が少ない場所を選び、シャッターを開け、そこで膝をつく。
中は中央が小さく窪み、その底には、燃料を染み込ませた耐熱材が敷かれていた。
ここに寝かせれば、あとは火をつけて外のシャッターを閉じるだけ――それだけの構造。
こんな場所でも、彼女の艶やかな黒髪は世界を彩っていた。
ゆっくりと、ナミを土嚢の中央へ横たえる。
形の崩れた胸元がわずかに沈み、布が波打った。
着火剤を広げ、ライターを構えたまま、ふと、止まった。
火をつける前に、見ていたかった。
顔を。形を。傷の位置を。
もう二度と“確認”する機会がないと知っていたから。
目に灼きつける。
喜怒哀楽、全ての表情を見せてくれた顔。
「大好きだよ」と俺を抱きしめてくれた両腕。
すぐに駆け寄ってきた両足。
そして――自分が灼いた傷を。
ただ、忘れたくないという執着だけだった。
儀式のような確認を済ませ、決意し、火をつける。
ぱち、と軽い破裂音がして、すぐに勢いを増していく。
そのまましゃがみ込み、ただ炎を見つめていた。
――そのときだった。
軽い衝撃が走る。
熱で布が縮み、支えを失ったナミの腕が倒れ込んできた。
そのまま地面に落ちる。
左手の指先が、布の端から覗いた。
薬指。
呼吸がひとつ跳ねる。
そのまま自分の左手を伸ばした。
迷いはなかった。
ナミの左薬指に、自分の左薬指を絡める。
「……次があれば、一緒に幸せになろう」
声かどうかも曖昧な音が、空気へ溶けた。
炎の熱量が上がり、空気が重くなる。
酸素が薄く、意識が鈍る。
眠気に似た鈍さが脳を支配する。
それでも指は離れなかった。
熱で皮膚が焼かれ、痛覚が遅れて襲ってくる。
身体が反射で退こうとするが、言うことを聞かない。
皮膚が焼け、ただれた匂いがわずかに上がる。
――それでも、離したくない。
今ここで手を放したら、本当に戻れなくなる。
そんな確信だけが、骨と神経を貫いていた。
「相澤様!」
背後から駆けてくる足音と聞き馴染みのある佐々木の声。
次の瞬間、腕を強引に引かれ、焼却区画から引き剥がされる。
「生きるって約束でしょう!」
怒りでも叱責でもなく、必死の声音だった。
それでも俺の視界には炎しか映らない。
「ナミ――!」
「ダメです!」
俺の目は炎だけを見ていた。
燃え盛る白布。
崩れ落ちる影。
最後に見た輪郭が、光に溶けていく。
左薬指が脈動する。
痛みなのか、熱の残滓なのか、それとも――別の何かか。
脈が一度、強く跳ねる。
俺は、大きく息を飲んだ。
そこに“ナミが宿った”気がしてしまった。
理屈ではない。
あり得ないとわかっている。
それでも、そうとしか思えなかった。
炎は、風の流れに形を変えながら赤く揺れていた。
俺は動かず、その光だけを見つめ続ける。
ナミは、もう戻らない。
その事実だけが、左薬指の奥で脈を打っていた。
そして、俺の世界は静かに次の段階へと進んでいく。
薬指と共に。




