2.闇が満ちた日
常識が通用しない。
床が腐ったように沈み込んでいる。
崩れたリビングの中央で、我が家の二階を突き破るほどの高さがある異形の巨体が鎮座していた。
俺が見た瞬間、その腕が動いた。
指というには長すぎる節くれだったものが、空を切る音すらなく天井を裂き、壁を捲り、家の一角をまるごと摘み取った。
天井が落ちたのでも、爆発したのでもなかった。
まるで人が果実をもぐように、屋根も、柱も、床も、まとめて千切り取った。
重力と音が遅れてついてくる。
断面から漏れ出すのは、埃、粉塵――そして“静寂”という名の音の死。
その中心に、「それ」がいた。
地球には存在し得ない。
既存の分類に押し込むなら、「未確認生命体」と呼ぶほかなかった。
「それ」は、まるで時の狭間から現れた幻影のようだ。
しなやかにして硬質なその体は、命を持つ金属のようだった。
それでいて、意志を宿した石像のように、冷たく動かない。
静止しているはずなのに、その表面だけが微かに呼吸している。
次の瞬間には、全身が滑らかに動いていた。
しかしどこか、この重力に属していないように思えた。
獣のように四肢で身を支えていながら、肩から生えている両腕はぬるりと上に掲げられていく。
顔は鳥のようでありながら、どこか人間に近い観察者の気配を宿していた。
凹凸のある胸部の溝は、心臓のように見えながらも、そこに鼓動は感じられない。
この異形から感じられるのは、冷たい静けさ――息づくことを拒むような沈黙。
「それ」が息をするのか、血が流れているのか、俺にはわからない。
背中に装甲と一体化したように埋め込まれている円環構造から発せられる光が、唯一の明かりだ。
それは脊髄の延長にも、未知のエネルギー機関にも見える“何か”。
それも、希望の光ではない。
あれは、世界を照らすための灯りではなく、全てを終わらせる光の、静かな点滅である。
だが、何より目を引いたのは――
青い眼。
夜を切り裂くような冷たい輝き。
感情、敵意。どちらも感じられない。ただ、そこに「在る」だけの光。
現代生物に例えるなら爬虫類と近しい瞳孔だ。だが、見つめていると、こちらの体温が少しずつ奪われていくような錯覚に陥る。
視線を逸らせば逃げられるかもしれないのに、目が離せない。
まるでその眼の中心に――見る者の精神を絡め取る穴が空いているようだった。
この家はもう俺とナミだけの優しい城じゃない。
あいつが支配者で、俺が異物だ。
そして、「それ」の右手に、ナミの姿があった。
目を開けているのか、閉じているのか。
屋根の上にまで伸びた腕の先では、表情までは判別できなかった。
ただ、ナミはぐったりとして動いていなかった。
けれど、確かにナミだった。
その体は、何かに包まれながら、ゆっくりと崩れていくように見えた。
水でも霧でもなく、粒子でも膜でもなかった。
けれど確かに、この世界とは違う向こう側へ沈んでいく。
――いや、違う。
その一瞬、俺は見た。
「それ」の口元から、するりと伸びたものがあった。
しなやかに、滑らかに、空気を滑ってナミに触れた一本の舌状の器官。
濡れているようでいて光も吸い込むほどに黒く、まるでこの世界の物質ではないようだった。
ナミの体に、それが触れた瞬間、全てが変わった。
ナミの体が、引き寄せられていた。
その黒い器官が、吸い寄せるようにナミを捕らえ、包み込んだ。
何の抵抗もなかった。
ナミは力なく、その黒い帯に絡め取られ、吸い込まれるように沈んでいった。
音がない。
舌が擦れる音も、飲み込まれる音も。
骨が砕かれるはずの音も、肉が裂けるはずの音も。
悲鳴も、泣き声も、俺の名も――
まるでこの世界では再生できない映像のように、ただ映るだけだった。
俺は……動こうとした。
足が床を蹴ったのかどうかもわからない。
この現実の中で、足がどこに着いているのかさえ曖昧になっている。
視界は歪み、空気は軋み、重力が消えていく。
俺が持っていた“日常”というものが、あの黒い舌と一緒に飲まれていく気がした。
「……………………ナミ……」
名を呼んだか。叫んだか。心の中だけか。
わからない。もう、何もわからなかった。
ただ確かなのは――
彼女が、もうそこにはいなかったこと。
直後、青い眼が俺を捉えた。
一瞬だけ、“測るような”静けさが走る。
だが何も言わず、それは目を逸らした。
そのまま、霧の中へと姿を溶かしていく。
定められた道順でもなぞっているかのように、迷いなき歩みで遠ざかる。
ナミを連れて。
――俺だけを置いて。
時だけが流れているのだろう。
豪雨だけが変わらず、家の抉れた場所から、裂けた木材の匂いとともに吹き込む。
何も感じられない。もう、何もなかった。
残された俺の掌が、まだ、誰かの体温を探している。
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